左耳に囁く理由

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 貫太の病室は、建物の最上階だった。 病院スタッフに礼を言って、病室のドアをノックした。 中から返事が聞こえて、その声に少し安心する、貫太の声だ。 春馬は、安心させるために、律を振り返ってから、ドアを開けた。    貫太は、ベッドの上で、上半身を起こして座っていた。 頭に包帯を巻かれて、右手にギブスをはめられ、右肩から腹まで、包帯でぐるぐる巻きにされていた。 右腕のギブスのせいで、上着が着られないのか、袖を通さず肩から掛けていた。    貫太の姿を見た途端、律がベッドわきに駆け寄った。 無言のまま、貫太の顔に触れると、ぽろぽろと泣き出した。 「律……春馬さん」 貫太は驚いて、それしか言えない。 「空知から聞いて、飛んできたよ」 泣きじゃくるばかりで、何も説明できない律にかわって春馬がそう言った。  ぽろぽろと泣く律に困って、貫太は無事な左手で、不器用に律を撫でた。 「ごめん、律」 貫太の言葉は、聞こえないようで、律は縋り付いたまま、泣き続けた。 「あー、俺何か飲み物でも買ってくるよ」 春馬は、二人に気を使って、病室を出て行こうとした。 「春馬さん」 貫太が、鋭い声で呼び止めた。 「大智さんは軽傷で済んだようです。 さっき見舞ってくれたので、まだ近くに居ると思います」  春馬は、知らずに安どのため息をついた 「多分、大智さんの左耳、もう何も聞こえていません」 今、貫太の言った言葉が、上手く理解できない 「今回の事故も、左耳が聞こえないせいで、注意を促した人の声が聞こえずに、逃げ遅れたのだと思います」 春馬は、貫太の、厳しい表情を見て、貫太が本当の事を言っているのだと思った。 「『覚悟を決めて来てくれた』そう思っていいですよね。 何があっても、どんなことがおきても、大智さんと一緒にいてくれますよね」 貫太の辛そうな顔が、今まで大智を傷つけてしまった事実を突きつける。  春馬は何も言えずに、ただ貫太を見つめていた。  律が、貫太を押しとどめて、春馬を振り向いた、眉毛をハの字に下げた律の顔を見て、春馬は何も言わずに病室をでた。    一人きりになって、病院の中庭に出る。 中庭には、瑞々しい草花が植えられ、小さな噴水もあった。 その花が咲き誇る様子を眺めながら、噴水の周りをぐるりとり、空を見上げた。    先ほど貫太に言われた言葉が蘇る    知らずに息を詰めていたらしい、息苦しさを感じて、息を吸い直した。 『覚悟』その言葉でいいだろうか…… ただ、居てもたってもいられず、飛び出してきてしまった。  春馬は、急に、何かに引き付けられるように、その人を見つけた。 見覚えのある後ろ姿、頭の小さなその背中…… 間違えるはずがない、ずっと焦がれていた、その人。 春馬はその人に気が付くと、自然に大きな樹の幹の陰に隠れた。  春馬の十五mほど先に、大智が立っていた。 仕立てのいいスーツを着て、まっすぐに立って、向こうに居る人と、何かを話している。  春馬は気配を消して、その後ろ姿を盗み見る。 貫太の話では、大智の左耳は、何も聞こえないらしい。 右に少し、体を傾けて、その人の話を聞いていた。  小さな声なら、もう一度、名前を呼んでも、許されるだろうか。 春馬を隠してくれている、大きな樹の陰からなら、許されるだろうか。  大智の、左後ろに立っている春馬は、小さな、小さな声で、吐息の中にその音を呟いた。 「……だいちィ」  聞こえるはずの無い呼びかけに、大智は反応した。 驚いた顔で、左側から振り向いた。  真っ直ぐに、こちらを見つめる大智と、目が合ってしまった。 それだけで、もう指先さえ動かすことができなくなった。  あぁ、見つかってしまった 逃げなくては 一刻も早く 彼の視界から逃げ出していかなければ 直感的にそう思った。  春馬が、目を逸らして、走って逃げだすよりも早く、大智は動いた。 一呼吸する、一瞬の間に、春馬との距離を詰めて、強い力で腕を掴まれた。 掴まれた腕よりも、強い力を持った視線に、とらえられる。  臍の下の、丹田のあたりから、体は痺れたように、動けなくなった。 引くことも、振り払う事もできない。 ただ、その目を見つめるだけ。  大智の左頬に、おおきな絆創膏が、貼られていた。 春馬は、掴まれていない右手で、絆創膏ごと、頬を包み込んだ。 「怪我した……」 春馬は、急に怖くなった。 もしかしたら、失くしていたかもしれない。 もう二度と、大智の体温に、触れることさえ、できなかったかもしれない。  呼吸をするのが、急に難しくなった。 いくら吸い込もうとしても、酸素は上手く、肺に運ばれず、頼りないヒューヒューという音と、こらえきれなかった唸り声が、口からこぼれていく。 「春馬さんだ」 大智が、不思議そうに、そう言うのを、左耳で聞いた。  春馬は、泣いていた。 意識はなく、ただ涙だけがぽろぽろとこぼれていく。 過呼吸を、起こしかけて、意識が遠くなる。  大智に、強く抱きしめられて、やっと立っていられた。 「大丈夫、無事だよ。 俺は生きているし。 俺たちは、また会えた」  春馬は、大智に抱きしめられている箇所から、熱が伝わって、それが体中を、熱く駆け回っていくのを感じた。 肺に、酸素が巡り、身体中に新鮮な血液を送り出す。 「また会えた…… 」 春馬は、大智の言葉を繰り返す。  おずおずと、大智の背中に、手をまわして、抱きしめる。 大智の体温を感じて、覚悟を決める。  大切なものは、腕の中にある。 これを守るためなら、なんだってできる、なんだってしよう。  大智の笑顔につられて、春馬も泣きながら笑った。  今まで、音もなかった、カウントダウンの時計の最後に行きつく、あの部屋に、瑞々しい光がさした。 時計の音は聞こえない、代わりに左耳から、大智の声が深くひびいた。 「もう、追いかけっこは終わりです」 覚悟は決まった、自分が、幸せに成る覚悟。  何度も迷って、何度も挫けて、何度も泣いた。 春馬は大智をギュッと抱きしめる。  覚悟の大部分が、自分の欲望に偏っていて、少し心配になったので、上目使いで聞いてみる。 「大智は、俺で本当にいいの? 」  大智は、優しい顔で頷いた。 「春馬さんは、俺の、『一生分の一』ですよ」 「…一生分の一? 」 大智は楽しそうに笑って、春馬を強く抱きしめた。 「じゃあ、行きます」 「へ? 」 大智は、春馬の手を強く握って、スタスタと歩き出した。    病院の、正面エントランスに出ると、大智の前に一台の車が止まった。 大智は、何も言わずに、その車の後部座席に、春馬を乗せると、自分も乗り込んだ。 「行ってくれ」 大智がそう言うと、車は静かに動き始めた、 あまりのスムーズさに、春馬はあっけにとられていたが、はっと気が付く。 「ちょっと、どこ行くの? 俺、貫太の病室に帰らないと」 「貫太の病室に何の用事があるンですか」 「律君と一緒に、日本から今着いたところで、俺まだ、貫太の怪我の様子とか詳しく聞いてないよ、空知に知らせないといけないのに! 今日、泊まるところもまだ決まってないんだよ、ちょっと飲み物買ったら帰るつもりだったし」 「わかりました、手配します」 「手配? 」 「必要なのは、律君の泊まるホテルと、食事。 貫太の、怪我の具合は、空知さんに詳しく説明するように指示します。  ところで春馬さんの荷物は? 」 「貫太の病室だよ。 二人の邪魔だと思って、少し出て来ただけだから」 「トランクは、俺の部屋に、運ぶようにしておきます」 そう言うと大智は電話を掛けた。 「もしもし、内田か? …そう俺だ。 今から、支持することを、至急やってくれ。 まず、日本の千葉の連絡先に、怪我の状態を、詳しく連絡。 千葉の病室に、ご家族が来ている。 ご家族の宿泊先、食事の手配、必要なら車と運転手も用意しろ。 それから、千葉の病室に置いてある、トランクを一つ、俺の部屋にもってこい…… そうだ、ご家族の物と、もう一つある、その持ち主のいない方だ。 俺は今日、ホテルに戻る。 緊急性がない事項は、明日に回す。 緊急性がある物は、お前に一任する。 人命に、かかわる問題以外は、俺に連絡してくるな。 では頼む」 その後も、二,三度、返事をすると、大智は、携帯の電源を落とした。
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