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君を憶えていたかった
どうやって戻ってきたかは、憶えていない。
気が付くと、春馬は、自分のアパートに帰ってきていた。
今朝まで一緒に過ごした、大智の匂いが、部屋のあちこちに残っていて、どうしても、思い出に引きずられる。
まだ、そこに居るような気がして、閉まっているドアを開けて探す。
探しながら、いるわけがないことを思い知る。
今朝、大智が座っていたベッドに座って、ぼんやりと部屋の中を見わたした。
込み上げてきた胃液を、反射的に飲み込んでしまい、喉の奥がずきりと痛んだ。
気分が悪くなって、トイレに駆け込む。
すべて戻してしまうと、急激に体力を奪われる。
「……仕事、行かなきゃ」
そんな風に独り言を言ってみる。
身体が萎むほど、大きく息を吐く、じっと手を見つめた、手の平の上に、ポタリと水滴が落ちる。
いつの間にか泣いていた、声をあげずに、自分でも気が付かないうちに。
のろのろと這って行って、ベッドの下から、小さな収納ボックスを取り出す、そっと蓋を開けると、そこに入っていたのは……
大智と一緒に行った水族館の半券。
大智が出かけるときに置手紙として残したメモ。
映画の半券。
他の人から見ればまるでゴミだが、春馬にとっては大切な品物ばかりだ。
そこに新たに、チェストに並べて飾っていた、大智がクレーンゲームで取ってくれた犬の縫いぐるみを大切にしまう。
次に写真たてを手に取った、いつか二人で行った温泉旅行で撮った写真だ、写真に写る大智をそっと撫でる。
楽しかったあの思い出が、蘇った。
ピンポーンと、インターフォンの呼び出しベルがなった、宅配業者のようだ。
ドアを開けて、荷物を受け取る。
荷物の差出人は『東条大智』だった。
胸が苦しくなって、手が震えた。
戸惑いながらも、荷物を開けた。
そこには、あの丸いライトが、赤いバラの花びらの中に埋もれて入っていた。
ゆっくりとライトを取り出す。
花びらがパラパラと膝に上に落ちた。
バラの花びらと、ライトの他には何も入っていなかった。
春馬は、そのライトの作り出した、水面の反射のような光がとても気に入っていたので、大智がわざわざ送ってくれたのだろうか……。
その光が、見たくなって、ライトのスイッチをつける。
ライトはいつもの光ではなくて、何枚もの写真を、部屋の壁に映し出した。
大智と出会ってからの、春馬と大智の思い出の写真ばかりだ。
レストランで働いている春馬。
今年の花火大会の時だろうか、浴衣姿の春馬。
ベッドの上で、ふざけて撮った二人が並んでいる写真。
ハーバーの桟橋に立っている後ろ姿。
蕎麦を食べている姿。
温泉街でお土産を選んでいる姿。
こんな顔をしていたのか……こんな風に楽し気に笑っていたのか……。
写真がフワリと消えて、あの水面に当たった光の反射が映る、ヨットに乗る大智の背中を照らしていたあの光だ。
ふいに思い出してしまった、あの日、レストランにやってきた東条隆元の声が蘇る
「……親ばかなんだが、私はあの子に期待しているんだ、いずれ兄の智十星と一緒に、東条建設を背負って行って欲しいと思っているんだよ。
その時に、あの子の隣にいるのは、美しい女性でなくてはいけない。
世間の信用を得るには、必要な事だ。
あの子の将来を、守ってもらえないだろうか」
大智の将来を守る。
その為に、別れを選んだ。
どちらも逃げられないような状態でなければ、別れられないと思った。
彼に追われたら、引き留められたら、捕まってしまったら、春馬の意思は弱く崩れ落ちてしまうだろう、別れるなんてきっとできない。
だからこそ、卑怯な手段をとった。
酷く彼を傷つけただろう……
あんなに顔をさせて、かわいそうだった。
水面を反射するような、光が途切れて大智が一人で写った。
「春馬さん」
壁に映し出された大智が話し出した。
春馬は、その顔を見上げたまま、目を逸らすことも、瞬きもできなかった。
「俺は、イギリスに旅立ったところですね、春馬さん、いつかプロポーズの予約をしましたよね、これは……やっぱり、また予約です、でも、もうすぐです、あとちょっと待っていてくださいね、帰ってきたら、今度こそ本当のプロポーズをしますね、楽しみに、待っていてください。
愛しています、貴方だけが、俺の未来です」
壁に映し出されている大智は、いつもより大きくて、春馬に静かに微笑みかけてくる。
春馬の大好きな、あの色素の薄い茶色の目が細められる。
春馬は すがるように、壁に映し出された大智に手を伸ばした。
「この留学を無事に終えて、イギリスの大学の卒業資格を最短で取得します。
自分で決めたことを、途中で投げ出さないことを証明して、貴方に相応しい男になります。
この試練を乗り切ったら、自分に自信が持てるはずです。
それで『いい男』って事にしてもらえませんか?
『いい男』になって、貴方を迎えに行きます、だからあと少しだけ、待っていてくださいね」
大きな大智は、はにかんだように笑った、眩しすぎて、見つめていられない。
「寂しい思いさせてごめん、必ずあなたを迎えに行く。
誰よりも、俺を信じて欲しい、どんなに離れても、貴方を愛しています。
春馬さん」
大智はあの眩しい笑顔で、笑っていた。
壁に映った大地の顔が、激しく左右に揺れた気がした。
遠く消えてしまうのが嫌で、思わずライトを抱きしめた、ぐっと胸に抱きしめると、込み上げてくるもので、のどが詰まる。
激しくせき込むと、一緒にまた腹の中のものを戻してしまった、腹の中にはもう何もなく、胃液しか出てこなかった。
そのまま気が遠くなって、春馬は小さく丸まった。
ライトを抱きしめたまま、気を失った。
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