君を憶えていたかった

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一週間経ても、一か月たっても、春馬の記憶は戻らなかった。  思ったより入院は長引いた。  ヨットハーバーのレストランには、代わりのシェフがやってきた。  職場を失ってしまった春馬は、空知の勧めで、空知の実母 美桜と、そのパートナー 熊の経営するブドウ園を手伝うことになった。  熊のブドウ園は、海風のよく当たる崖の上にある。  海風の力を借りて、病気や害虫被害に必要な薬剤を、最小量にして育てたぶどうで、ワインを作っている。  熊は、このワインとあう料理を提供できる、イートインコーナーをワイナリーの中に作る計画があり、春馬はそれを手伝うことになった。  春馬は、部屋を引き払って、住み込みでブドウ園に行くことになったので、引っ越しが必要になった。  退院したばかりの春馬が心配だから……と、空知と海人が、春馬の引っ越しを引き受けた。  なかなか記憶の戻らない春馬を見ていた医者が『壊れてしまいそうな自分の心を守るための、ぎりぎりの選択だったのかもしれない……』と言っていた。 ……となると大智の面影が多く残る、春馬の部屋に、春馬を戻したくなかった。  何が起きるのかわからないので、怖かった。  二人は、あの日のまま置き去りにされていた部屋に入った。  大智が言っていた丸いライトは、ローテーブルの上に置かれていた、多分空知がそこに置いたのだろう、その時は、慌てていて無意識だった。  大智との思い出だろう、縫いぐるみや、映画の半券が大切にしまわれている収納ボックスに、ライトも丁寧にしまって、しっかりと蓋を閉じた。  段ボールに詰まっていた、バラの花びらは、干からびてカサカサになっていた。  ブドウ園では、熊と美桜との共同生活になるので、春馬の持っている家財道具のほとんどは必要がない。  春馬からも、特に思い入れは無いので処分できるものはしてほしいと頼まれた。  荷物の大部分は、リサイクル業者に回収してもらった。  空知と海人が、この部屋からブドウ園に持っていったのは、服と小さなソファとローテーブル、チェスト、あの収納ボックスだけだった。   ブドウ園で、春馬の部屋のクローゼットへ、洋服をしまい、あの収納ボックスも丁寧にクローゼットの一番奥にしまった、まるで、春馬が引っ越してくる前からそこにあるもののように見えた。  見つけてしまうかも……と思いながら、見つけて欲しいような気がして、そこにしまった。 春馬の幸せを願う空知には、どちらが正解なのかわからない。  大智の事を思い出したら、春馬は壊れてしまうのだろうか。  あんなに好きだったのに、あんなに大切にしていたのに、あんなに楽しそうだったのに……。  大智が遠く離れてしまうから、別れを告げたのだろうか  大智が目標を持ってそれに向かって努力してきた姿を、誰よりも知っている春馬が、距離を理由に、別れを言いだしたりするだろうか……。  大智は常に葛藤していた。  心配でそばに居たい。  そばに居ることが春馬の重荷になるかもしれない。 ……もどかしさが、大智からの手紙につづられた言葉の端々に感じられた。  頑固で、寂しがりやな春馬。  誰よりも優しくて、自分の事は二の次で、幸せに成ることに不慣れな春馬。  皆、どうしていいかわからず、ただ静かに観守ることしかできなかったこの状況に、唯一はっきりと意見を言ったのは、貫太だった。  この話を聞いて貫太は、ひどくおこった。 「幸せに成る覚悟のできない春馬さんのせいじゃないですか! お互いがつらいだけのこんな選択を、どうしてしたんだ! 春馬さんだけ、何もかも忘れて、楽になるなんておかしい! 大智さん一人が、すべて覚えて抱えているなんて、不公平だ!」 と感情のままに怒っていた、貫太の言う事ももっともだと思った。  記憶を消してしまわなければならないほどの辛い別れを、なぜわざわざ選んだのだろうか。  空知はただ頭を抱えることしかできない。  空知が一人、悶々と思い悩んでいると、帰ってきて、手荒いうがいを終えた、海人に頭を撫でられた。 「ただいま」 「おかえり」 空知は、ソファに座ったまま、海人を見上げた。 海人は、空知の髪をかき混ぜるように撫でると、ネクタイを外して、それをクローゼットのある寝室に置きに行った。  空知は、海人の後に続いて、寝室に向かう。 後ろから抱きしめて、帰ってきたばかりで、外の匂いがする海人の匂いを嗅ぐ。  海人の肩に、顎を乗せて甘えながら訊く 「ねぇ、海人……俺が海人の事忘れたらどうする? 」 海人は、背中に空知をくっつけたまま、ネクタイを丁寧に掛けると、シャツのボタンを外していく。 「そうだなぁ……絶望する。 それでも、抱きしめると思う、手放せない」 「抱きしめて」 空知は、海人の背中にすりすりとおでこをこすりつけた 「俺の事、忘れたのちゃったの? 」 そう言いながらも、向きを変えて抱きしめてくれた。 空知も、海人の背中に手をまわして、隙間ないほどに抱きしめる。 「大事な物の記憶を失うって、どんな感じなんだろうな……きっと、何もなくて、空っぽだ」 そういう空知の声は少し震えている。 「空っぽかぁ、そんなに頑なに、大切な人と別れなきゃいけない理由って何だろう、あの臆病な春馬が、やっとの思いで恋人になったのに……」 海人は、空知を抱きしめて、しみじみとその温かさを確認する。 「少し待ってみよう、俺たちの知らないことがまだあるのかもしれない」 抱きしめ合いながら、海人は空知をあやすように背中をポンポンとやさしくたたいた。 海人の言葉に、空知はただ頷いた。  空知が求めるままに、甘えさせながら、優しく名前を呼ぶ 「空知」 「なぁに? 」 優しく抱きしめられて、少し落ち着いたのか、空知はのんびりと答える。 「俺は、空知の事も心配だよ、あんまりお前が気に病むなよ」 その言葉に、甘やかされすぎだなぁと思いながら、空知はまたギュッと海人に抱つく。 「海人を失ったら、きっと、もう息もできないな……」 空知が、海人の腕の中で、そんなことを言った。 「そうか、だから春馬は記憶を失ったのか……」 海人は、空知を抱きしめる、失くさないように、強く。
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