貴方に会いたい

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貴方に会いたい

 東条大智(とうじょうだいち)は、予定通り、二年間の留学を終えて、無事、イギリスの大学の卒業資格を手に入れた。    あの日から、二年間、大智は一度も、日本には帰らなかった。 慣れない異国での、生活で余裕がない事もあったが…… 本当の理由は…… 怖かった、ただ怖かった。 生涯たった一人だけ と決めた、大好きな人が、自分を忘れてしまった事実を思い知ることが、怖かった。 あの人がもう、自分を忘れてしまったことを、 あの人がもう、自分の恋人ではないことを、確かめるのが怖かった。    留学先に出発するその時に、恋人の阿見春馬(あみはるま)から別れを告げられた。 『追いかけることのできない』状況を作ったうえで、別れを告げられた。 あれは間違いなく、春馬の計画だった。 あの日の朝まで…… 出国ゲートをくぐる直前まで、別れる素振りなど微塵も見せなかったのに……。 いったい、いつからが彼の計画だったのだろうか。    大智は、二年の間に多くなってしまった荷物を、分別しながら、荷造りをしていた。  ふと、何通も送られてきたエアメールの束を見る。 これは、春馬の友人である 月島空知(つきしまそらち)と、学校の後輩 千葉貫太(ちばかんた)からの手紙だ。    空知からの手紙には、春馬の様子が書かれている。 『大智と別れた日』に倒れた春馬は、そのまま記憶の一部を失ってしまった。 大智と出会ったところから、過ごした日々の事は、すっぱりと失われてしまった。 大智は、春馬の中に存在していない。  空知の手紙には、その原因は、大智を失う辛さから心を守るために、無意識にとってしまった自己防衛だろうという推察と、春馬の心を守るために、春馬に会いに来ることは、少し待って欲しい、というお願いが書かれていた。    そう言われてしまえば、無理に会いに行くことなどできない。  少し落ち着いたら、記憶が戻ってくるかもしれないので、それまでは会いに来ないで欲しい、その代わり、春馬の様子は必ず伝える、状態が良くなったら、必ず連絡する と締めくくられている。  春馬の記憶は、今だ戻っていない。 パニックを起こすこともあり、病状は思わしくなかったので、以前勤めていたヨットハーバーのレストランをやめて、今は空知の実母とそのパートナーが経営する、ブドウ園で住み込みで働いている。 住み込みなので、夜も誰かしらそばに居られる状態だから、心配は要らない、と手紙には書かれていた。 春馬と一緒に過ごした、あのアパートも、今は、引き払われている。  自分が、『春馬にストレスをかけるだけの存在だ』と言われているようで、つらいが、春馬を苦しめたいわけではない。 空知が言うままに、春馬が少し落ち着くのを待ちながら、もう二年もたってしまった。  貫太の手紙は、いつも写真が同封されていた。 ブドウ園で働く、春馬の写真を、何枚も送ってくれた。 ぶどうの収穫をしている様子、新しいメニューを貫太達に紹介している様子、昼寝をしている写真や、皆でバーベキューをしている写真もあった。 春馬の様子がわかるのは、単純にうれしかった。 顔色の悪かった春馬が、時間とともに、明るい表情を取り戻していく様子が見られて、安心し、うれしかった。  恋人の事を…春馬さんの事を、片時も忘れられなかった。 だから、考え続ける。  好きな物  嫌いな事  大切にしている事  考え方  教えてくれたこと  ずっとずっと考え続けている。    触れる度に、求められるたびに、愛されていると実感していたのに、どうして、こんなことになってしまったのだろう。  春馬は、幸せに不慣れすぎる。  幼いころ母を失った、朝起きたら、隣で寝ているはずの母は静かに冷たくなっていた。  おじいさんに再会し、しばらく一緒に暮らしたが、おじいさんもすぐに病気で亡くなった。  おじいさんの弁護士をしていた、老夫婦と一緒に暮らしたが、夫人が倒れて、その夫婦に甘えているわけにいかずに、老夫婦の家を出た。    始めてできた恋人の、留学先に追いかけて行ったが、恋人に会えず、日本に帰ることもできず、異国でいろんな国を転々としながら暮らした。  幸せには、必ず終わりがあると思っている人  恋人同士になることを怖がっていた人  追いかけて、捕まえて、言いくるめて、我儘を言って、恋人にした  甘えるのが下手で、強がりで、時々やきもちをやいてくれた  甘やかす度に、真っ赤になって恥ずかしがった    あの、薄くて白い体を組み敷くたびに、彼を暴いて、愛を注ぐたびに、受け止めてられて、分かち合っていると思った  手を伸ばして、求められて、切ない声で名前を呼ばれるたびに、彼に夢中になった  愛した分だけ、愛されていると思った。    彼に別れを告げられた、あの瞬間までは 結局、本当のところは、まるでわかっていなかったんだ。    遠く離れても、二年がたっても、春馬はまだ、大智の心の大部分を占める、愛しい人に変わりは無い。  距離や時間などで、大智の中の、春馬の存在意味が、変わるはずなどない、それは始めからわかっていたことだ。  大智は、頭を振って、自分の頬を両手で叩いて、気合を入れ直した。 エアメールの束は、手荷物に大切にしまった。    いつかクレーンゲームでとった、左目の下に黒子のある、デフォルメされたミツバチのぬいぐるみ、この二年そばに居てくれた。 はたから見れば、いい年の男が縫いぐるみを見つめて、めそめそしているなんて、おかしな光景だと思うが、春馬に似ているそれに、ずいぶん気持ちを助けられた。  その大事な相棒も、邪険にできなくて、結局大切に鞄にしまう。 手荷物が大きくなってしまうが、仕方ない。
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