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約束の、土曜日の朝。
貫太が、一人でホテルまで、迎えに来てくれた。
律は、仕事があるため、今日は一緒では無かった。
ブドウ園までは、車で一時間ほどかかった。
海沿いの、急な斜面に、へばり付くように、広がっているため、園までの道は、険しい。
国道から、右に曲がると、その先には、ブドウ園しかないので、急な砂利道に、なっている。
ブドウ園には、海人も空知も来ていた。
貫太と一緒に、二人に挨拶をしていると。
「おはようございます」
その声は、懐かしく耳に響いて、息がつまって、鼻のおくがツンとした。
声の方を見ると、春馬が立っていた。
大智の、記憶の中の春馬より、少しやせたようだった。
長かった髪は、短く切られて、以前よりも幼く見える。
左目の黒子が、相変わらず印象的で、二年前と変わらず美しく、目が離せなかった。
春馬は、大智を見ると『初めまして』と挨拶した。
その挨拶に、大智は固まってしまい、ぎこちなく『初めまして』と返した。
春馬が、大智の事を憶えていない現実が、苦く、呼吸しようとする肺を、ギュウギュウと締め付ける。
オーナーの熊さんから、注意事項と、手順を、簡単に説明してもらった。
ブドウ園では、垣根仕立てとうい方法で、仕立てられているので、T字型にたてられた木の向こう側と、こちら側から、一房ずつ丁寧に収穫する。
瑞々しい、緑色の房を、くるりとまわしながら、変色しているところを、取り除き、葉っぱを、一緒に取っていないかを確認しながら、収穫する。
大智は、モクモクと手を動かしながら、春馬の姿を思い出す。
心のどこかで、期待していた。
留学を終えて、彼のもとに戻ったら。
もしかしたら、記憶が、戻るンじゃないか。
欠けてしまった、彼の記憶のパズルが、元通りに修復されるンじゃないか。
全く甘い幻想だった。
彼にとって、俺は『初めて会う人』でしかないのに……
「東条君」
声をかけられて、顔をあげると、ブドウの木の向こう側に春馬が立っていた。
相変わらず、恋しいその人の姿に、目を細める。
「はい」
ただ返事をした、春馬に声をかけられた衝撃で、上手く考えられない。
「東条君は、貫太の学校の先輩なの?
今日は、手伝いに来てくれて、ありがとね~」
大智の目の前で、同じブドウの木の向こう側で、収穫を始めた。
他愛のない、世間話をしながら、ニコニコしている春馬は、やっぱり可愛かった。
「東条君、背が高いから、この中腰はきつくない? 」
「まだ、大丈夫です」
「そう? 休みながらやってね。
後でさぁ、みんなで、昼ごはん食べるけど。
そのゴハンは、俺が、つくることになっていて。
昨日から、色々考えていてさぁ。
楽しみにしていてね。
それでさぁ、だ……東条君は、好きな食べ物なぁに? 」
「そうですねぇ……
今は、ザ・和食なのがいいです。
肉ジャガとか、サバの味噌煮とか、ヒジキの煮物とか、味噌汁とか」
春馬は声をあげて笑った。
「以外、渋好み」
「そうですか? 」
「うん、かっこいいから、もっと今どきの物が好きかと思ったよ。
サバの味噌煮は、意外だった」
大智は、思わず、ぶどうを収穫する手を、止めた。
「……かっこいいですか? 」
「え? かっこいいでしょ、女の子にモテそう」
「あぁ……そういう…… いや全然モテません」
僅かに期待した気持ちが萎んでいく。
「えーまたまた、俺が、女子大生なら、ほっておかないよ」
「ほっとかれまくりです」
春馬は、コロコロと笑う。
「みんな見る目無いね」
春馬と話しているのは、楽しくて、苦しかった。
そして気が付く。
大智を忘れた春馬は、新しい恋をしたのだろうか。
「春馬さんは? 」
「え? 」
「春馬さんは、恋人とか、好きな人とかいますか? 」
「あ~俺さ…… ちょっと難しい人なのよ。
だから…… しばらくはいいかなぁ」
「難しい人……なんですか? 」
大智は、春馬を見つめた。
春馬はフフ……と笑って、顔を伏せるので細かい表情までは分からなかった。
それからしばらく、二人は何も話さずに、パチン、パチンという、ぶどうの枝を切る音だけが、初秋の風にもてあそばれて、響いた。
昼近くなって、春馬は先に、ブドウ園から、美桜たちが住んでいる、ログハウスに戻った。
冷蔵庫を、確認してみたが。
魔法のように、材料が増えるわけでもないので、予定していたよりほかのメニューは難しい……
サバの味噌煮はできなかった。
続いてパントリーを覗く。
そこに、乾燥ヒジキと、大豆の缶詰を見つけた。
あわてて、キッチンに戻り、冷蔵庫から、人参を取り出すと、ヒジキを洗って、干しシイタケと一緒に水で戻した。
程よい時間に、セットしておいた炊飯器を開けて、キノコの炊き込みご飯を確認し、しゃもじで混ぜる。
朝から用意しておいた、具沢山の豚汁を温め直してから、味噌を溶かし入れる。
水で、もどしておいた、ヒジキを軽くゴマ油でいためた後、ニンジン、シイタケを入れて炒める、出汁と大豆を入れて火にかける、一煮立ちした後で砂糖、醤油で味を調える。
残りの出汁を使って、厚いだし巻き卵を焼く。
昨夜から、西京味噌につけていた、豚肉を焼き。
作り置きしていた、筑前煮を温める。
手早く、ほうれん草をゆでると、ツナとあえる。
すべてをテーブルに並べる。
冷凍庫から、凍ったアップルパイを取り出して、予熱したオーブンに入れた。
作業を終えた皆が、がやがやと話しながらログハウスに入ってきた。
「すっげー、うまそう」
貫太が楽しそうにテーブルを眺めた。
「貫太、手を洗ってからだぞ」
熊さんが、快活に大きな声で、そう言った。
皆が楽しそうに笑った。
順番に手を洗ってから、席に着いた。
春馬が、ご飯をよそうと、皆でバケツリレーのように配る。
美桜がお茶の用意をしてくれて、食事の準備が整った。
春馬が最後に、空いている席に座ると、隣に大智が座っていた。
「よっしゃ、手を合わせて! いただきます」
空知が、元気にそう言って、皆はそれに従った。
ワイワイと話しながら食事が始まった。
「春馬君、このゴハンいい塩梅だわ」
美桜が嬉しそうに春馬をほめたたえた。
「このヒジキも美味しいです」
隣に座った、大智に、笑顔でそう言われて、春馬の顔がほんのりと赤くなった。
「それにこの匂い、アップルパイですか」
大智は、オーブンから流れてくる匂いを、クンクンと嗅いだ。
「あ……そう、たまにブドウ園に来る、小川寺さんの、奥さんの実家が、リンゴ農園でね。
アップルパイに適している、リンゴをわけてもらって、ここのブドウ園の、レーズンも入れて、パイにしてみた」
「へー、美味しそうですね、楽しみです」
「うん」
春馬は自然と笑っていた、その笑顔につられて大智も笑った。
食事は、楽しく、たらふく食べた。
最後のデザート、アップルパイを切り分けて、コーヒーで一息つく。
アップルパイは、甘酸っぱくて、コクがあって、とても美味しかった。
「さぁ、もうひと頑張りだ」
熊さんの号令で、午後の作業が始まった。
作業は、順調に進んだ。
夕方には、明日、また手伝いに来ることを、約束して。
大智と、貫太は車に乗り込み、見送られながら帰った。
空知と海人は、そのままログハウスに泊まるようだ。
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