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父 隆元から、急に連絡があったのは、日本に帰って、一ヶ月ほどたった、土曜日だった。
重い腰をあげて、そろそろ不動産屋にでも、行こうかと思っていた矢先だった。
『用事がないのなら、きちんと身なりを整えてて、ホテルのロビーで待っていろ』と言う。
何があるのかと、聞いてみたが、その質問に、答えてもらえないまま、通話は切れた。
『相変わらず、一方的だ』と思いながら、言われた通り、きちんとしたスーツに着替えて、ロビーに降りる。
「大智さん」
ロビーにはすでに、内田が来ていた。
内田の説明によると。
今から、連れて行かれるのは、小川寺グループの、ホテルらしい。
小川寺グループの、新しいホテルを、東条建設が、建てたことが縁で、父 隆元と、小川寺グループの若き社長 小川寺新が意気投合し、一緒にゴルフに行ったり、食事に行ったりする間柄になった。
今日は、会食の予定だということだ。
小川寺グループの小川寺新社長は、現在四十歳、代々続いてきた家業を父から引き継いだのは、およそ八年前、三十二歳の時だった。
その五年後 三十七で結婚、愛妻家、息子一人。
今日は、兄 智十星も会食に同席するので、大智も一緒に来い…… という事だ。
ドレスコードは内田から合格点を貰った。
内田に、連れられて、小川寺グループのホテルに着いた。
大智を、ホテルに送り届けると、内田は、すぐに帰ってしまった。
ホテルのスタッフは、分かっているようで、ロビーに入るとすぐに、ドアマンがやってきて、レストランに案内された。
ロビーにあるラウンジには、透明のショウケーズが置かれており、そこには、いつか姉 万智がかってきてくれたアップルパイが並んでいた。
万智が言っていた、アップルパイが有名なホテルとは、ここの事だったのかと思いながら、ロビーを横切って、エレベーターで、レストランのある階まで登った。
ドアマンは、大智を、レストランに案内し、レストランスタッフに、何かをささやいた。
レストランスタッフは、大智に一礼すると、個室に案内してくれた。
そこにはすでに、隆元と智十星が座っていた。
隆元の、向かい側に座っているのが、小川寺社長だろう。
小川寺社長は、座っていてもわかる長身で、端正な顔立ち、見るだけで分かる、高級そうな三つ巴スーツにノーネクタイ、ボタンを開けているので、胸板の厚さが強調されている。
時代を牽引する『勝者』の風格、動物に当てはめるなら、まさにライオンだ。
「あぁ、やっと来た」
大智の姿を見つけると、隆元が立ちあがり、大智を手招いた。
大智は、指示された通り、隆元の横に立った。
「小川寺社長、コレが私のもう一人の愚息、次男の大智です」
隆元に紹介されて、大智は小川寺社長に頭を下げた。
「東条大智です」
「初めまして、小川寺新です」
小川寺社長も、立ち上がり握手を求めて、大智に手を伸ばした。
大智は、その手を自然に取った。
会食の席に着くと、ウエイターが、大智の席を整える。
サラダやスープが運ばれ、大智のグラスにも赤いワインが注がれた。
「大智君、そのワインはね、私の友人の会社の物で、今年の一押しです。
国内ワインですが、海外の物にも引けを取りません、どうぞ飲んでみてください」
すすめられるままに、大智は一口飲んだ、コクのある渋みと、何より香りが豊だった。
「美味しいです」
「お口に会ったようで良かったです」
新は、嬉しそうに笑っていた。
食事は、メインの魚料理、口直しのグラニテ、肉料理…… と続く。
小川寺の話は面白く、特に隆元は、終始ご機嫌だった。
『小川寺』最近、どこかで聞いた名前だ。
大智は、静かに食事をとりながら、つらつらと考えていた。
そして、思い当たった、先日ブドウ園で、春馬が言っていた名前だ、奥さんの実家がリンゴ園で、アップルパイに丁度いいリンゴを、貰ったと言っていた。
もしかして、春馬の事を、知っているのだろうか。
隆元との話が、ひと段落ついて、丁度、話し出してもいい雰囲気になった。
「あの…… 小川寺さん、あまり聞かないお名前ですよね」
「えぇ、そうですね」
「あの、失礼ですが、奥様のご実家はりんご園ですか? 」
ふいに、智十星のスマホが鳴った。
同席している面々に、断ってから、智十星は、席を立った。
大智は、話し出した言葉を、静かに飲み込んだ。
智十星が、電話を終えて、席に戻ってきた。
「すみません、少し問題が発生しました。
私と東条は、社に戻りますので、これで失礼します」
千歳の言葉を聞いて、隆元が、静かに席を立った
「新君、不躾で申し訳ない」
隆元は、残念そうに、新たに頭を下げた。
「いいえ、皆さんが、不安がっていらっしゃいます。
早く、戻ってあげてください」
「では、続きはまた今度」
「はい、次回を、楽しみにしております、東条社長」
新も、軽く頭を下げた。
「小川寺社長、弟を置いて行きます。
食事を続けてください」
智十星が、そう言うので、大智は立ち上がりかけた椅子に、又座り直した。
「はい、そうさせていただきます」
大智の様子を見ていた、新は、少し笑いながらそう答えた。
「感謝します」
智十星は、軽く頭を下げて、隆元の後に続いて、レストランを出て行った。
新は、智十星の後ろ姿を眩しそうに見送った。
「智十星君は、社長の右腕と言ったところですね」
「はい、自慢の兄です」
そういった大智に、新は少し驚いた顔をした。
その視線に、気が付いて、大智は、不思議そうに新を見る。
「兄弟の、仲が良くって、いいですね」
大智は、子供っぽいと言われたと思い、少し恥ずかしくなって視線を逸らした。
「あっ、いえ …… 私にも、弟が二人いますが、そんな風に、言ってもらえないと思いまして」
新は、頭をかきながら、大智の様子をチラリと見た。
「弟さんに、聞きましたか? 」
「え? 」
「立派な兄に……
特にいつも忙しそうな兄に、話しかけるのは、少し勇気がいるンです。
本当は、話したいと思います。
兄の考えが知りたいし、色々聞いてほしいと思っているのに、言えないことがほとんどです。
小川寺社長から、聞いてあげて下さい。
きっと、沢山話したいと、思っているはずです」
「…… そうですか? 」
新は、困ったように、眉を下げた。
「絶対にそうです」
大智が、あまりに、自信満々に言うので、小川寺は少し笑ってしまった。
「そうですか…… イイことをおしえてもらいました」
新は満足そうに目を細めた。
ウエイターが静かに食べ終わった皿を片付けて行った。
新は、ウエイターの所作を、静かに観察していたが、少し遠くにはなれると、話し始めた。
「君の言う通り、私の妻の実家は、リンゴ園だよ。
熊さんのブドウ園にいる、阿見君に頼まれて、少し譲った。
リンゴを譲ったのは、阿見君だけだよ、数が多く取れないものだから……」
新は、グラスに残ったワインを飲み干した。
それから、大智の様子を注意深く見つめる、大智は視線を感じて、姿勢を正した。
「阿見君の大切な人が、唯一教えてくれた好物が、アップルパイらしい」
「大切な人…… 」
「阿見君はきっと、辛い恋をしている」
新は、確信をもって、そう言った。
春馬に、いつか『アップルパイが好物だ』と伝えたことがあった。
自分でも、気づいていない好物を、家族が教えてくれた日だ。
母に、春馬の事が好きだと、話した日…… 大晦日だった。
記憶がないはずの春馬が、大智が話した、あんな些細なことを、思い出したのだろうか。
大智ではない別の人を、春馬が好きになって、その人の好物が、アップルパイだったのだろうか。
「私にも、似た経験があります。
それもあって、阿見君の恋を、応援したいと、思っています」
「え? 」
「私にも、辛い恋の記憶があります。
妻を恋人にするのに、フラレ続けまして。
あきれるほどの時間と、好機が必要でした」
「え? 小川寺社長を、袖にする女性なんて、居るンですか? 」
新は大きな声で笑い出した。
「アハハ…… いや、フラレますよ、日常茶飯事です」
新は、まだ笑いながら、軽く手をあげた。
ウエイターが、二人の会話など聞いていないような顔で、食後のコーヒーを置くと、そのまま頭をさげて下がった。
「特別な、デザートを出しましよう」
そう言って、先ほどのウエイターに何かを合図した。
ウエイターは、温められたアツアツのアップルパイに、バニラアイスが添えられた皿をサーブする。
「このホテルの、人気スィーツです。
アップルパイお好きすか?」
「…… はい」
「そうじゃないかと、思いました」
新は、まだおかしそうに笑っている。
新の真意が掴めず、大智は戸惑って、じっと見てしまう。
「大智さんも、辛い恋をしていますね」
「あ…… 」
「いいことを教えてくれた、大智君の事も、私が応援します。
あなたの願いが、叶いますように」
驚いてまた、新を見つめてしまう。
「何かあれば、いつでも、頼ってください」
「…… 俺の事、何か知っているのですか?」
「いいえ、勘です」
新は、魅力的なウィンクで答えた。
「私の勘では、大智君は、熊さんのブドウ園の、阿見君が、気になっている」
自信たっぷりの、新の言葉に、大智は、コーヒーカップに指を掛けたま、固まってしまった。
「私に、熊さんのブドウ園を、紹介してくれたのは、智十星くんです。
『国産ワイン』をつっくっているから紹介したい、と言って教えてくれました。
私は前職の癖で、国産ワインに、とても興味がありますが、私の為に、智十星君が、リサーチしたとは考えづらい……
智十星君の、気になることが、熊さんのブドウ園にあって、以前からあのブドウ園を、気にかけていた…… と考える方が自然でしょう。
では、あのブドウ園にある物で、智十星君の、興味を引き続けているものは何か。
…… ぶどう、ワイン、熊さんご夫婦、そして阿見春馬君です。
東条建設の若きリーダー、専務取締役の東条智十星君。
彼は、弟と仲がいい。
年の離れた弟が、兄を尊敬しているとすれば。
彼も、弟を可愛がっている、と考えられる。
彼の弟、東条大智、アメリカ留学を終え、先日、帰国。
目的を達成し、前途洋々のはずの彼は、暗い顔をして、この会食に現れた。
彼には、憂いがあるに違いない。
彼が気にしているのは、阿見君にあげたリンゴ。
そこで僕はこの物語を考えました。
阿見君の切ない恋の相手は、アップルパイが好きで、何らかの理由で、彼と会えない。
恋人が留学していたら会えないよね。
アップルパイが好きな、留学帰りの、阿見君を気にする大智君。
君が、阿見君の恋人だろ。
ちょっと、無理矢理感はあるけど、あながち間違っていないと思うけど、どう? 」
大智は返す言葉を失った。
新は、なおも続ける。
「君たちは、すれ違っている。
私が、何度も経験した、それだ…… 少しは分かるよ。
お互いを思いすぎて、踏みだせずに、すれ違う。
こんな時はさ…… 目を瞑って踏み出すしかない。
失いたくない方が、失いたくないものを、つかみ取るために。
傷つくかもしれない、でも…… 手に入る可能性は、ゼロじゃない。
飛び込むしかないよ、どんなに暗く、冷たい水にもね。」
新は、大智をじっと見る。
「後悔は、少ない方が、いい」
新は、何かを思い出したのか、少し辛そうに、視線を落とした。
その顔を見た大智は、新を、信じられる人だろうと、肌で感じた。
「ありがとうございます、小川寺社長とお話しできて、良かったです。
たまには、父のわがままも、役に立つものですね」
新は、心底面白そうに、笑った。
「大智君、また一緒に、食事をしよう」
「はい、是非」
大智はやっと、コーヒーを一口飲んだ。
小川寺グループホテルの、アップルパイは、甘酸っぱくて、微かに希望の味がした。
それから大智は、できるだけブドウ園へ、出かけるようになった。
収穫の手伝いは、勿論。
ワインの仕込みも、手伝わせてもらった。
週末ごとに、用事を見つけては、ブドウ園に通った。
「なんか、四年前にも、こんな光景、見たような…… 」
週末ごとに、ぶどう園にやってくる大智に、空知がそんな感想を言った。
大智は、春馬との思い出などは、一切語らなかった。
ただ、毎週のようにやってきては、ブドウ園を手伝い。
春馬と、何気ない会話を、楽しんでいた。
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