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左耳に囁く理由
その年の秋は、あっという間に過ぎて、早すぎる冬がきた。
急に寒くなった、その冬は雪がやけに多かった。
海沿いの崖に、へばり付く様に広がるブドウ園では、氷交じりの海風が、強く吹き付けるので、茶色に変色したブドウの葉が、カサカサに凍りついた。
朝から、雪が降ったり、止んだりしている、こんな日に、ブドウ園に続く、細く急な砂利道を登ってくる人は、誰もいない。
去年仕込んで、この秋に出来上がったワインは、味も濃く、かおりも芳醇。
熊さんの、自慢の一品になったのに、なかなか振舞う好機に恵まれず、残念な日々が続いていた。
ぶどう園の真ん中にある、 春馬が暮らしている、ログハウスの窓ガラスも凍り付いて、そこから冷気が染みてくるようだった。
春馬はボンヤリと、雪を見ていた。
去年の秋に、大智や貫太と収穫したぶどうが、今年の美味しいワインになった。
今は、遠いアフリカで、仕事に励んでいる彼らに、送って味わってもらいたいと思い、自分で頭を振って、その考えを追い払う。
もう、かかわってはいけない、『大智の未来を守る』そのために、春馬は、消えてしまわなければいけない。
窓の外の、白くなっていく世界に、いつか恋人として、大智と一緒に行った温泉旅行を思い出す。
どの記憶も優しく見つめられて、守られて、恋人に甘えていた。
春馬の好きな、低く響く声を思い出す。
無意識に左耳を触る。
そこに、大智の声が残っているような気がした。
最後に、大智が、春馬に、委ねてくれた、未来を選ぶ方法。
「貴方に決めて欲しい事は、俺と一緒に生きるか、俺のいない人生を生きるか…… どちらを選ぶかだけです」
選べるものなら……
ふと、あの色素の薄い目を思い出す、美しい決意を持ったあの視線。
……いや、決めたことだ。
何度振り払っても、何度諦めても、つい考えてしまっていることに気が付く。
こんなに恋しい人がいる。
この生涯は、わりと悪く無かったなぁと思い、また、ほわりと白い息をつく。
大智はきっと、やり遂げる。
アフリカで地図に残る仕事をするだろう。
輝かしい彼の未来に、春馬はいらない。
春馬の、失くしてばかりの人生に、輝くたった一つの宝物。
春馬にとって、大智が必要だっただけだ、逆は無い。
眩しい光だった、大智のいた日々は、あの水面に反射した光のように、瑞々しくて、きらめいていた。
あぁ…… 好きだ。
「いい夢だったなぁ」
春馬の独り言は、ほわりと白い息になって、窓ガラスに凍り付いた。
もし…… もしも、大智の元に行けたとして。
やはり、同じ問題にぶつかるだろう。
大智の家族は仲がいい。
子供と遊ぶために、時間も労力も惜しまない父親。
子供の話を繊細に、楽しそうに聞く母親。
弟の好物を、土産に買ってくる姉。
大智が、尊敬している兄。
春馬は、何一つ持っていない。
その大切な存在達は、春馬の存在を……弟の同性の恋人を快くは思わないだろう。
絶対に、大智まで、家族を失うようなことは、あってはいけない。
社会的に影響のある、大きな会社の後継者。
彼の隣には、優しく美しい女性が必要だ。
それこそが、彼の正しい未来。
春馬は、静かに膝を抱えた。
小さくなって、時間が過ぎるのを待っていた。
約束の一年が過ぎて。
大智が、春馬を忘れて。
健やかな、未来が訪れる。
…… その時を、待っている。
もう……ずいぶん泣いた、泣きつくした。
カウントダウンの時計の、最後にたどり着く、何もない部屋の中で、一人きりな事にも、慣れ始めている。
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