芸術と芸能の狭間で

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私達一家が住んでいる町内には、江戸末期から続いているお囃子団体がある。 昔は古くから続く家柄の男子だけしか参加出来なかったのが、後継者不足により存続できなくなり、町内なら誰でも可になった。 新規入植者の我が家も一家でスカウトされ、所属しはじめて5年ほどになる。 お囃子に求められるのは、「そこに、楽しくにぎやかで有難い空気があること」。 その場にいるみんなが楽しいと感じられる空気を生み出す"職人技"が求められてきた。 その技術が100年以上の長きにわたり蓄積され受け継がれてきたからこそ、地域の伝統芸能として守っていただいている。 メインの活動はお祭りだが、それ以外にも色々と披露の場がある。お正月に(ご祝儀をいただくために)獅子舞で一軒一軒まわったり、(補助金ゲットのための活動アピールのために)ホールの舞台で発表したり、よその市のイベントに招かれてストリートで披露したり、神社の行事に盛り上げBGM係として呼ばれたり、お祝いパーティーの前座をしたり。 町会や市のバックアップもあるからなんとか存続できているが、活動のメインはどうしても寄付頼みのところがある。 楽器や道具や衣装の老朽化と常に闘っている。 寄付やご祝儀や出演料をいただく以上、お客さまに喜んでいただける、満足度の高い立派な演奏をする必要がある。 そのため、練習は欠かせない。 所属メンバーは、古くからいる人ほど複数の役をこなせる。笛も太鼓も獅子舞もひょっとこも。 大太鼓と小太鼓を一人で同時にこなせるドラマーみたいな人もいる。ちんどん屋みたいに楽器を抱えて歩きながらでもこなせる。 そこにいるメンバーで即席バンドを組める。 あの人がいないからできない、などということはなく、だれが抜けても、すぐに成立する。 別の囃子連の助っ人にもいける程の技術力を持つ者もいる。 賑やかな空気を長時間に渡り維持するために、交代しながらみんなで音が途切れないように繋いでいくには、なんでもこなせる人が多ければ多いほどいい。 そして、何があっても笑いにするひょっとこ面の踊りがキーだ。賑やかな音の中で面白さを振り撒きながら踊り、お客さんを喜ばせ、おどろかせ、笑わせる。赤子が泣き、周りがまた笑う。 そうして賑やかに見物人を惹きつけたところで、獅子や天狐の舞をド派手にカッコよく披露する。 元々お囃子は、江戸の祭をみて、うちもやろう、と覚えて帰り、地元でも真似するようになって広がっていった。(発祥の地とされる千葉から江戸を経由せず直接伝承したルートもある) だから、伝承の過程で変化していき、同じメロディの地域はほぼないに等しい。伝承元の地域によりいくつかの流派があるが、流派内とて全く同じではない。 (もちろん、昭和や平成になってから教わってコピーしている囃子連もたくさんある) 江戸から持ち帰られたお囃子は、上手く再現できた人が新たな先生となり、若者に教えていった。 「テケテンッㇰ ㇲッテンテン」などと呪文のようにぶつぶつ唱えながら、太鼓を覚える。 笛の指遣いも、メロディを覚え、ひたすら見て真似をする。 代々そんな伝え方だから、面白がる人や、やりたがる人がいなくなれば、そこで終わる。 (尚、現代は動画をフル活用) だから、そこに今残っているメンバーは、必然的に、器用で楽しく踊れる、客とのコミュニケーション大好きな陽キャだけである。 私が下手っぴながらも、やめずに続けられているのは、陽キャ集団は、我々陰キャ一家にも優しいからだ。 そんな陽キャなお囃子メンバーが、高齢者施設にお呼ばれし、お囃子を披露してきた。(慰問のため、もちろんノーギャラです。) そうしたら、泣いて喜ばれ、感動された。 笑って喜ばれたことはたくさんありますが、そこまで感動されたことは、多分なかったメンバーたち。 楽しくて、好きでやってるだけだからね、みんな。 泣かれる要素はどこにあったのか、やってる側はわからない。なぜなら、芸能というのは相手軸の芸だから、演者側には伝えたい思いやメッセージ性など、何もない。 カッコいい舞を見たいという観客の要望に応えるべく、『客からカッコよく見える動き』を追求し、究めてきただけだ。 芸能は、巧くて当然。 だがそこに芸術性が加わったのだ。 囃子連のメンバーたちがこの地に生まれ育ち、子どもの時から積み重ねてきた表現技術が芸能としての高みに至り、芸能の枠を超え、芸術性を獲得したのだと私は思った。 自分の思いを爆発させつつ、相手に伝わる表現法を探っていく芸術とは真逆のプロセスで、お客さまに感動を与えた。 これが様式美なのか。 伝統芸能として受け継がれてきた「決められた型」の中でも、芸術性を爆発させることができるのだな。 自分の出番を終え、袖から先輩たちの舞台をみていた私は、そのことに気づき、鳥肌がたった。 私も篠笛の練習頑張ろう。 肺活量が少な過ぎて音がなかなか出ないし、頭も弱っていて指がおぼつかないし、アラフィフで笛を引退する人が多い中、アラフィフで笛を始めたのは無謀なんだけど、私も挑戦したくなった! (表紙は神楽殿で天狐を舞った次男)
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