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机の下から鞄にかけた手を冷たい手で握られて、たかはもう終わりだと覚った。見慣れない上等な鞄に釣られたのが間違いだった。机に潜り込む時にもう気付かれていたのだろうか。たかは体が震えるのが止められなかった。
「堪忍!」
咄嗟に叫んだが、無意味なのはわかっている。捕まれば殺されるのは知っている。仲間の子供は毎日減り、増える。この戦世で親を殺され、家を焼かれるものは多い。乱世で子供が死ぬことを気にかけるものもない。
たかのことをほのかに光る赤い目が見下ろしていた。ああ、人でさえない。たかはそう思った。殺されるどころか食われるだろう。そうとしか思えなかった。
「こども……?」
引きずり出されるかと思ったが、男は手を掴んで覗き込んできただけだった。
「まったくこの国は本当によろしくない。西の方がまだよかった」
男はたかの手に握り飯を握らせる。
「こんな痩せていては食いでがない」
どういうことなのかわからなかった。だが、握り飯はまだあたたかく、腹がぐぅと鳴る。
「お食べ」
その目は冷たく不気味だったが、二日前に握り飯を半分食べたきりの腹はしくしく痛むほどに減っている。唾が口の中で溢れ出す。握り飯を食った後に食われるかもしれない。けれど、たかは我慢できずに握り飯にかぶりつく。
「おいしいか?」
こくこくと頷くと男は具のたっぷり入った汁もくれた。荷物を盗もうとしたのにどうして親切にしてくれるのかわからない。
「あまり一気に食べると腹を壊す」
もう一つ残った握り飯は片付けられてしまった。だが、久しぶりのまともな食事にたかは満たされた心持ちだった。これで食われるなら悪くない。生きているのも精一杯。生きている理由ももうわからない。
「ふむ。汚いな」
ぐいと引き出されて連れていかれたのは小さな家だった。金持ちそうな男の家にしてはこじんまりしているが、綺麗だった。ただ、すべての窓に板が打ち付けられ、布もかかっている。やはり普通の男ではないのだ。ここで食われるのかとたかは腹をくくる。だが、連れていかれたのは風呂だった。
「きれいにしなさい。着物も新しいものあげよう」
風呂のある家など稀だ。たかは戸惑ったが着物を脱いで身体を洗う。風呂など両親が戦で死んでから入れていなかったから、垢はたくさん出るし、髪ももつれ放題だった。ぬか袋で擦っても擦っても垢が出る。途中で嫌になって湯船に飛び込んだ。
湯船からはかぎなれない臭いがするし、ずっと溢れつづけている。かつて父に聞いた温泉というものだろうか。たかにはわからなかった。
たっぷりあたたまると眠くなった。たかは湯船を出る。あの男が言った通り、きれいな着物がおかれてあった。身体を拭いて、髪を櫛で梳く。こうして綺麗にするのはいつぶりだろうか。家が焼けてしまった日以来だろうか。もう何日過ぎたのかわからない。
生きるということがこれほど大変だとは想像もしていなかった。父母の生きていた頃はただただ楽しかった。楽しいことだけ考えれば生きていられた。今は毎日が必死で、死ぬことに怯えている。
けれど、今のたかの心は穏やかだった。飯にありつけ、身ぎれいにして、見返りに食われるならそれでいい。
しっかり帯を結んでそこを出る。小さな家だから廊下らしい廊下もなくてろうそくの明かりがゆらゆら揺れている部屋に入った。男はそこで煙管を手にくつろいでいた。立ち上る煙りにたかはくらくらした。窓が塞がれているから部屋に煙が充満している。
「名は?」
「たか」
「年は?」
「八つ」
男は考える素振りをした。
「正月で皆年を取るのだったな。たかはどの季節に生まれたか知っているか?」
思い起こせば母は暑い日に生まれたと話してくれた。
「夏」
「では六歳くらいか……」
男はたかに聞かせるでもなく呟いて遠い目をした。
「盗みをするものは殺すと決めていたが、やめだ」
やはり殺す気だったのかとたかは胸の奥が冷えた。
「たか、こそ泥をしていたということは親はないのか?」
「戦で死んだ」
じわり、涙が浮かんだ。生きるのに必死で泣く間もなかった。父母に会えるなら死ぬのも悪くないのかもしれない。
「そうか。よく頑張ったな」
大きな冷たい手で頭を撫でられてたかは堪えきれなかった。男はなにも言わずにそばにいてくれた。
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