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性欲と恋愛感情の線引きはどこでするのだろうか。夜明け前の鼻をつんっと刺す冷気が、少し穏やかになり始めたのを感じながら、颯真は物思いに耽る。その中心には横で毛布にくるまってまどろむ陽菜がいた。
彼女とはセックスフレンドだ。付き合いは半年くらいになる。一晩限りの出会いを求めて、若い男女が集まるマッチングアプリを通して知り合った。
一夜で終わることが多い関係性の中で長続きしているのは、趣味が一緒だったからだ。お互いに、人並み以上に食事へのこだわりが強かった。初めて会った日など、如何にこだわりが強いかを、口説くことも忘れて終電まで語り合った。
それゆえにつまらないことで(一番おいしい茄子の食べ方とか)喧嘩もするが、比較的セックスフレンドにしては親しい間柄だ。
金曜の夜にどちらかがオススメする店で食事して、陽菜の家に泊まり颯真が朝ご飯を作る。それが二人の習慣になっていた。
陽菜に対して恋愛感情など持っていないつもりだ。一緒にいるには楽な関係だったが、それは恋人という縛りがない故のものだと思う。(恋愛感情を持てばきっとこの楽な関係は終わるのだろう)。颯真の脳裏に26年間で積みあがった、はじめだけ甘くていつも最後は苦い経験が思い起こされる。
だからこのままでいいのだ。
仮に別の男がいるのだとしても咎める言葉も立場も持ち合わせていない。ただもう少しこの関係を続けたいと思っていた。
「野暮な事を聞くんだけど、いつまでこんな関係を続けたい?」
彼女に一度聞いてみた事がある。
「それはもうこの関係に飽きたってこと?」
「そうじゃ無いんだけど、最近友達が結婚してさ。あと数年もすれば周りはどんどん結婚して家庭を持っていくのかって考えたら、自分はどうなっているんだろうと思って。」
「私は今の関係ね、結構気に入ってる。そして、しばらくは続いて欲しいなとも思ってる。あなたみたいにご飯くらいで面倒くさいこと言う人、そうは出会えないから。」
ニコニコしながら陽菜が反応しづらい答え方をする。
「あまり褒めてるようには聞こえないけど。」
「褒めてるよ。お陰で私は週に一度の美味しい朝ご飯にありつけているんだもん。これからも私のためにお味噌汁作ってね。でも、できれば毎日食べたいな!」
あ、なんだかプロポーズしてるみたいー、と楽しそうに笑う彼女の本音は知りようもなかった。が、彼女の冗談に嬉しくなってしまったのをやけに鮮明に覚えていた。
不意のアラーム音に意識が現実に切り替わる。陽菜が音から逃れるように毛布に包まり直すのを横目に、ゆっくり腰を上げる。ほとんど眠れなかった割には、頭は冴えていた。
台所に行き、米を洗って早炊きのスイッチを押す。炊き立てを食べさせろというのが家主である彼女の指令だ。
献立を考えながら冷蔵庫から使う食材を出していく。少し悩んで、金平ごぼう、大葉のだし巻き卵、白ネギと油揚げの味噌汁を作ることに決めた。この悩む時間が、パズルのように上手く合うピースを探しているようで、颯真は好きだった。
人参と牛蒡を太めの千切りにしてごま油を引いたフライパンで炒める。ごま油を使うのも、食感が残るよう太めに切るのも、祖母から教わったやり方だ。祖母も料理好きで幼少期によく教えてもらっていたの思い出す。
ごま油に牛蒡の香りが移って香ばしい匂いを上げる横で、白葱と油揚げを切って一緒に鍋に入れて火にかける。味噌汁の具はこのくらいシンプルなのが良い。
だし巻き卵用に大葉も千切り。ただ今度は細めに、葉が潰れないように丁寧に切り進めていく。鼻を抜けるスッキリとした香りを閉じ込めるように、溶いた卵に加える。しらすと和だし、それから塩、酒、味醂を少々。もうすっかり作り慣れて目分量でも味が整うようになった。
満遍なく熱した玉子焼き機に卵液を流し、リズムよく巻いていく。変に躊躇してゆっくり巻いていくより、失敗上等と大胆にやる方が上手くいくのである。全て巻き終えると、一旦ラップに包んで形を整える。数えきれないほど繰り返した料理談義の中で、陽菜が素直に「その作り方が一番おいしい」と認めたのが、このだし巻き卵だ。
一度手を止めて陽菜を起こしに行く。遅くまで起きていたせいか今日は布団から出てこない。
「起きてー、もう朝ご飯できるよ。」
掠れた声で彼女が答えた。
「ん、まだ眠い...」
が、裏腹にお腹からはクーっと返事がある。
「...やっぱ起きる。」
恥ずかしさと眠気の混ざり合った顔で答えて、洗面所に歩いて行った。
味噌汁を仕上げて出汁巻きを切っていたら少しすっきりした顔の彼女がやってくる。
「昨日の夜あんまり食べなかったからお腹空いたー。」
「だろうと思ってご飯多めに炊いてる。」
さっすが〜、と言いながら陽菜が箸を並べ始めるので料理を盛り付けて持っていく。
「「いただきます。」」
2人揃ってまずは出汁巻き卵に手を伸ばす。
「やっぱりこのだし巻き卵大好き、よくこんな綺麗に作れるよね。」
「コツがあって出来上がったらぴっちりとラップに包んで、長方形になるように横から押さえてある。時間を置くから中から汁も出にくいよ。」
「へぇ〜、じゃあ今後とも朝食当番よろしく。」
それを言いたかっただけだろうと思いながら食事を続ける。
半分ほど食べ進めたところで彼女が口を開いた。
「なんだか新婚さんみたいだね。」
「そう?」
「健康的で美味しい朝ご飯を二人でそろって食べるなんて、いかにも結婚したての夫婦みたいじゃない?元カレと同棲してた時も、トーストとコーヒーだけとかもっと適当だったなあ。」
「トーストとコーヒーも立派な朝食だよ。一人の時は自分もいつもそれだな。簡単だし。」
「私といるときには簡単に済ませないんだね。」
陽菜が揶揄うように、ニヤッと笑う。
「泊める代わりに毎朝ご飯を作れって言ったのは陽菜でしょ。」
「まさかほんとに作ってくれるとは思わなかったんだもん。さては、余程私のこと好きなんだね。」
「そんな…」
言いかけて相変わらず楽しそうな笑みを浮かべる彼女に気付く。少し動揺してしまったのを悔やみながら、口をつぐむ。余計な事を言っても相手に楽しみを与えるだけだ。
(でも。もしそうだ、と言ったらどうなるのだろうか。いや絶対に言う事は無いけど。)
また始めだけ甘くて最後は苦いあの味を思い出しそうで、かき消すように食事を再開した。
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