情けは人の為ならず

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 明子には3分以内にやらなければならないことがあった。    それはたった今、この病院の人間ドック棟診察室Aに入っていった原田夫人にさっさとお引き取りいただくことである。しかしそれは無理な相談であった。    人間ドックの結果説明を終えて、付き添いで来ていた奥様と原田さんという患者さんが帰って行ったのは10分ほど前のこと。   「はぁ…やっとお昼食べられるわ」    うれしそうに呟いた浦医師は、カップやきそばを手に給湯室へと入っていったのだが、その直後に原田夫人が独りで人間ドック棟に戻って来たのである。  お湯を注ぎ終わって一旦給湯室を出て来た浦先生を見つけた原田夫人は先生を捕まえて何やら訴え始めた。  浦先生は(ここではなんですから)といった様子で原田夫人を診察室Aに案内し扉を閉めたのがつい先ほど。  人間ドック担当の浦先生のお昼は毎日のようにカップやきそばである。メーカーは様々で新商品や新しい味のものが期間限定などで発売された際には必ず買って来ている。  人間ドックで「健康的な食生活」を日々奨励している医者が、毎日ランチにインスタント食品をむさぼっているというのもどないやねんと看護師の明子は心中突っ込みたくなるのだが、何でも齢72の浦先生はご自宅ではインスタント食品、特にインスタントラーメンの類いを奥様に禁止されているのである。健康面を考慮してのことではあるがダメと言われると欲しくなるのが人情で、浦先生は昔よりも禁止されてからの方が食べるようになってしまったのだという。 「患者さんに身体に悪いってわかってることでも、僕あんまりキツく言われへんわ……」  浦先生は優しくて寛容な医師として、スタッフにも患者さんにも好かれている。 「自分が出来ひんことを他人に言うのは気ぃひけるしなぁ」  苦笑いしながら毎日カップやきそばを自分で作る浦先生のことが明子は大好きで敬愛している。しかしまさに今、その浦先生のカップやきそばが大ピンチなのだ。このままでは絶対にノビてしまう。  明子は焦った。 (原田夫人も、タイミングがあともうちょい早いか遅いかしてくれてたら有り難かってんけどなぁ…)  そわそわと時計を見ながら明子は思った。  あと少し早ければ浦先生はカップにお湯を注ぐ前だったし、あと少し遅ければ浦先生の食事が終わるまで、原田夫人に待って頂くよう明子がお願い出来たのである。 (3分で終わる話じゃないやろうし、どうしよう。お湯切っといた方がエエやろか……)  お湯を切ったところでやきそばはノビてしまうだろうが、それでもお湯に浸かったままよりマシなのではないか?いやしかしそれでは冷め冷めになってしまうか?  主婦でもある明子のそわそわは更に加速していく。 (3分キッチリでお湯捨てる方がエエんか?固い方が好きかもしれんし、柔らかいのが好きかも知れん…クソッ、普段の先生がどうなんかちゃんと見といたら良かった……)  そんなことをじっとり観察しているのもストーカーみたいで気持ちが悪いのだが明子の思考はそれどころではなかった。 (あっ!3分経ってもうたやん。どうしよう…勝手に触ってもいいんかな)  診察室Aの扉は未だ開く気配はない。 (でもなぁ…余計なことして迷惑がられんのは今朝で懲りたしなぁ……)  今朝明子は何日も前から冷蔵庫に入っていた4枚切りのハムの残り2枚で目玉焼きを作った。最近料理に嵌まっている19歳の娘が買ってきたハムが何日も放置され端っこがカピカピになっていたため、家族には卵焼きを作り明子はそのハムをかたづけるため目玉焼きにしたのだ。よかれと思って使い切ったハムだったのだが娘には、 「あっ!何でハム使ったんよ!今日ポテトサラダにしようと思ってたのに~」  と叱られた。もっと早よ使えよ、と思ったが謝った。勝手に使ったのはこっちが悪い。しかし一応傷む前に使おうと思ったのだという旨は伝えた。 「別にカピカピでも気になれへんもん、私。お母さんそういうとこあるよなぁ~ 情けは人の為ならずやで」  明子は娘の言葉に、ん?となった。 【情けは人の為ならず】とは、人の為にしたことは回り回って自分に返ってくるから人には優しくしようというニュアンスのことわざであると明子は認識していた。それを娘に伝えると、 「情けかけることばっかりがその人の為になるわけじゃないって意味じゃないん?」 と娘は不思議そうな顔をした。 「そもそも人の為って偽ってことやろ?そんなん素直な気持ちじゃないし、してやってる感出てもうてるやん」  そうなのか?明子は考え込んだ。 「いつかは自分にも返ってくるって期待して色々されてもされる方はウザいわ。自分がやりたいっていう純粋な気持ちからじゃないならそれは偽やん」  そう言うと娘はリビングを出て行った。 (してやってる感、でてたかなぁ……)  明子は更に考えてみる。  もしかすると、自分はカピカピのハムを食べるけどアンタらにはちゃんとしたご飯作ってるんやで、な、お母さん健気やろ感があったのだろうか?  してあげたいという気持ちが偽善なのか純粋なのか、自分でもわからないことだってある。 (難しいな…情けってなんやろ……)  そんな今朝の一幕が明子の脳裏を過っていた。  そうこうしているうちに時間はどんどん経っていく。もうお湯を入れてから10分以上が経過していた。 (う~ん やっぱり気持ち悪い……)    もはや食べることは出来ないかも知れないがせめてお湯は切っておこうと、明子は給湯室へ入った。  カップを持ちお湯を切りながら思う。 (ウチの子供らやったら、こういうトコがウザいねんって言いそうやなぁ)  その時突然背後から、 「あぁ、申し訳ないね」  と浦先生の声がした。  思わず手が滑った明子の目の前には、流しにぶちまけられた伸びきった焼きそばの麺。  やってしまった……声にもならず呆然とする明子のそばに浦先生がやって来た。 「あ~あ。また片付けんのに手間とらせてまうなぁ。ホンマ申し訳ない」 「先生……すいません。すぐ新しいの買ってきますんで」  慌てる明子に浦先生は優しい顔で微笑んだ。 「いや、却ってありがたかったわ。原田さんの奥さんから、ナンボ言うても主人がインスタントラーメン食べんの止めてくれへん、きっとそのせいで血圧上がってるに違いないって話をさっきまで聞かされててなぁ……他人事ちゃうわ」  ポリポリと頭を掻きながら浦先生は続ける。 「なんやかんや宥めてきてんけど、このカップ麺食べんのが何か申し訳なくてなぁ。捨てるんも気ぃひけるしって思っとったトコやねん。ひっくり返してくれて助かったわ。今日はちゃんと食堂で何か食べてくることにする……」  そう言って浦先生は若干肩を落としているようにも見える様子で給湯室を出て行った。 (これはどっちの為ならずなんやろ?まぁもうどっちでもエエか…)    取りあえず流しの焼きそばをかたづけるべく、明子は腕まくりをした。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!