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電車が走る振動と、足元から吹きあがる暖房の温みが心地よく、熟睡していたシオは重たい瞼を持ち上げた。はっとして飛び起きる。目の前のシートで横一列に並んで座っていた乗客の姿がない。もしかして既に終点を過ぎ、車庫に向かっているのでは。
焦って周囲を見渡し、ほっと息をつく。シオが座っているのは六人掛けシートの左端。その同じシートの真ん中に、乗客が一人座っていた。この人が乗っているのなら、まだこの電車は客を運んでいる最中だ。とっくに二百四十円区間は過ぎているが、改札でわけを話せば通してくれるだろうか。もし家に連絡を入れられるなら、逃げるしかない。
重い気持ちで、正面に視線を移す。窓の外は真っ暗で、疲れた自分の顔が窓ガラスに反射している。その向こうには一つの灯りもない。どこに向かっているか知らないが、民家の灯りさえ見つからないだなんて、一体どこを走っているのか。
「おい」
首をひねっていると、低く唸るような声が耳に入り、咄嗟に身を竦ませた。ぎこちなく視線を横に向けると、唯一の乗客は前を向いたまま続けて言った。
「おまえ、どこから乗ったんだ」
真っ黒のコートを身に纏った、背の高い男だ。黒の山高帽を深く被りコートの襟を立てているから、顔がよく見えない。髭を剃っていないのか、隙間から灰色の毛がはみ出している。
「どこから乗った」
その髭が吐息に揺さぶられる。わからないとシオは囁いた。男は不気味だった。
「自分がいた駅もわからないのか」
苛立ちよりも呆れの滲む声だった。どうしようもなくなり、膝においた両手を握りこみ、シオは男から視線を剥がす。「全く……」男がぶつぶつと何か呟いているが、聞こえないふりをした。聞きたくないものを八割がた聞こえなくするのは、数少ない得意技だ。
男が黙ると、電車の走る音だけががたごとと響く。背もたれに身を預けぼんやりとしながら、随分長い間、駅に到着しないことに気が付いた。知らないうちに、死者を運ぶ乗り物に乗ってしまう怖い話を思い出したが、それでもいい気がした。だが、隣の男は死者にしてはあまりある存在感を放っていた。
突然、窓の外に灯が見えた。一点二点ぽつぽつとではなく、一気に街が近づいたようだ。光の粒が闇の中にばらまかれたように輝いている。思わずシオが目を見張ると、電車は徐々に速度を落とし、現れたホームの中に滑り込んで停止した。
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