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「こっちに人間が来なかったか」
あの肉塊の化け物の声が聞こえ、シオは石のように身体を固める。
「こんなちっさいやつだ」
低い声が返事をする。
「俺の前を走ってったぞ。すばしっこいガキだったな」
それだそれだと嬉しそうな声をあげ、どたどたと駆け出す足音が聞こえた。微妙に足元が揺れているのは、心臓の鼓動が激しいからではないだろう。
その声も音も揺れも全てが遠ざかった頃、自分を囲う黒い布が持ち上がった。
「くそ、面倒ごとに巻き込みやがって」
そう言うのは、電車で出会った狼男だった。コートの中に隠してくれていたのだ。シオはへなへなとその場にへたり込んだ。
「おい、あいつはいなくなったぞ。おまえも早くどっかに行け」
「……もう、いい」
自然と、そんな言葉が口をついていた。「ああ?」狼男が怪訝な声を出す。シオは汗を拭うふりをして、視界の滲んだ目元を拭った。
「もういいってなんだおまえ。食われてえのか?」
わからないと囁く。電車でも同じ台詞を言ったことを思い出した。情けなさに零れそうになる涙を懸命に堪える。だが、この異形ばかりの街に自分の居場所などないことはすぐに理解した。かといって、何とかして元居た場所に戻ることも考えられない。家にいられなくて、どこかを目指して電車に乗ったのだから。どこにもいけないことを理解すると、せめて痛くないように誰かが殺してくれればと思った。
狼男は舌打ちし、路地から出て去っていった。
シオは膝を抱え、建物の隙間で目を閉じた。血の滲んだ裸足がじくじくと痛む。寒くも暑くもないのが幸いだ。もう何も考えたくなくて、立てた膝に額を押し付けた。
疲労から眠りかけた時、ちっという音が聞こえ、身体が浮いた。舌打ちをした相手に抱えられ、コートの中に突っ込まれた。それが狼男であることは、さっきと同じにおいでわかった。まるで犬にでもなったような気分だった。
ぽいと放られ床で打った背中をさすっていると、部屋の灯りが点いた。眩しさに目を細める。天井がやけに低く見えるのは、狼男がでかいせいだろう。部屋の中央には巨大なソファーが横たわり、壁際には薄汚れたシンクがある。そばには一組のテーブルと椅子があり、狼男がどっかりとそこに腰掛けた。これから、人間という食材を使った晩飯の時間なのだろう。覚悟したはずなのに、シオはうずくまったまま恐ろしさに身体を縮こまらせた。
「そんなにビクつくな。おまえみたいな骨だらけの人間なんて、不味いに決まってる」
山高帽をテーブルに置いた男の顔は、やはり狼そのものだった。夢のようだが、夢だなんてシオは思わなかった。
「安心しろ、おまえがもっと太ってから食ってやる。今は非常食だ」
物騒な台詞だが、今すぐ食われるわけではないと知り、シオの身体に安心感が満ちる。同時に緊張が緩んだのだろう、電気が切れるように視界が暗くなり、シオは意識を手放した。
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