第四章:声の主

15/37
前へ
/145ページ
次へ
 あの後、桟橋に自転車を残したまま莉都は 僕をタクシーに乗せ、すぐに家に連れ帰って くれた。莉都に抱えられて帰宅した僕を見た 羽那さんは、慌てて病院の夜間救急に連れて 行こうとしてくれたのだけど。僕は「寝れば 治るから」と、その申し出をやんわり断った。  運動会の時のこともあり、病院に行こうと しない僕をみんな心配してくれたけど、身元 がわからない上に保険証も持っていない僕を 連れて行くとなると、それなりの迷惑が掛か ってしまうと思ったのだ。  もちろん他にも、知られたくないことや、 訊かれると困ることがあるから行きたくない という本音もあるのだけど。  「これで治るかわからないけど」  と、眉を寄せながら羽那さんが持ってきて くれた総合感冒薬を飲んで、僕は時折り襲っ てくる痛みを遣り過ごしていたのだった。  「……もしかして僕、死んじゃうのかな」  不意に言いようのない不安に襲われ、ため 息をつく。この痛みは脳腫瘍によるものだと 思えば、心の中をざらざらとしたものが駆け 巡ってしまう。  「もしかしたら、再発したのかも」  そう独り言ちて、頭にある手術痕に触れる。  この傷が脳腫瘍を取り除くために出来たも のだとしたら、あの声の人物が言っていた通 り、五年生存率は六十%くらいなのだろう。  「死にたくないな」  無意識のうちに、そんな言葉が口を衝いて 出る。口にした途端、なぜか莉都の顔が頭に 浮かんできて、僕は滲んでくる涙に目頭を押 さえた。 ――死んだら莉都に会えない。  そう思い、唇を噛み締める。  死なないためにはどうすればいいんだろう?  生きて莉都の傍にいるために、何が出来る?  僕は指先で涙を拭い、光の中から聞こえた 声を思い出した。  『見す見す死なせるわけにはいかない』  二人のうちの一人が、そう言っていた。  彼らが何者かはわからないけど。僕をどう するつもりかもわからないけど。その口振り は僕が死んだら困るというもので、僕の命を 脅かす存在ではないように思えた。そして、 どこか感情が感じられない彼らの声音は夢の 中で空のことを話してくれた、あの男性のも のとも違った。閉ざされていた記憶に浮上し てきた、新たな人物。  「あの人たちなら、僕の病気を治せるかも」  そう思っても自分が誰なのかさえ思い出せ ない僕は、彼らを探す術を持っていなかった。 結局、考えを巡らせたものの答えに辿り着け なかった僕の腹の虫が、突如、空腹を訴える。 ――ぐぅ……きゅるる。きゅ~ろろろ。  静寂に包まれた部屋の中に、緊張感のない 音が響き渡る。僕はその音に吹き出すと、く つくつ笑いながら両手で顔を覆った。
/145ページ

最初のコメントを投稿しよう!

67人が本棚に入れています
本棚に追加