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あの後、桟橋に自転車を残したまま莉都は
僕をタクシーに乗せ、すぐに家に連れ帰って
くれた。莉都に抱えられて帰宅した僕を見た
羽那さんは、慌てて病院の夜間救急に連れて
行こうとしてくれたのだけど。僕は「寝れば
治るから」と、その申し出をやんわり断った。
運動会の時のこともあり、病院に行こうと
しない僕をみんな心配してくれたけど、身元
がわからない上に保険証も持っていない僕を
連れて行くとなると、それなりの迷惑が掛か
ってしまうと思ったのだ。
もちろん他にも、知られたくないことや、
訊かれると困ることがあるから行きたくない
という本音もあるのだけど。
「これで治るかわからないけど」
と、眉を寄せながら羽那さんが持ってきて
くれた総合感冒薬を飲んで、僕は時折り襲っ
てくる痛みを遣り過ごしていたのだった。
「……もしかして僕、死んじゃうのかな」
不意に言いようのない不安に襲われ、ため
息をつく。この痛みは脳腫瘍によるものだと
思えば、心の中をざらざらとしたものが駆け
巡ってしまう。
「もしかしたら、再発したのかも」
そう独り言ちて、頭にある手術痕に触れる。
この傷が脳腫瘍を取り除くために出来たも
のだとしたら、あの声の人物が言っていた通
り、五年生存率は六十%くらいなのだろう。
「死にたくないな」
無意識のうちに、そんな言葉が口を衝いて
出る。口にした途端、なぜか莉都の顔が頭に
浮かんできて、僕は滲んでくる涙に目頭を押
さえた。
――死んだら莉都に会えない。
そう思い、唇を噛み締める。
死なないためにはどうすればいいんだろう?
生きて莉都の傍にいるために、何が出来る?
僕は指先で涙を拭い、光の中から聞こえた
声を思い出した。
『見す見す死なせるわけにはいかない』
二人のうちの一人が、そう言っていた。
彼らが何者かはわからないけど。僕をどう
するつもりかもわからないけど。その口振り
は僕が死んだら困るというもので、僕の命を
脅かす存在ではないように思えた。そして、
どこか感情が感じられない彼らの声音は夢の
中で空のことを話してくれた、あの男性のも
のとも違った。閉ざされていた記憶に浮上し
てきた、新たな人物。
「あの人たちなら、僕の病気を治せるかも」
そう思っても自分が誰なのかさえ思い出せ
ない僕は、彼らを探す術を持っていなかった。
結局、考えを巡らせたものの答えに辿り着け
なかった僕の腹の虫が、突如、空腹を訴える。
――ぐぅ……きゅるる。きゅ~ろろろ。
静寂に包まれた部屋の中に、緊張感のない
音が響き渡る。僕はその音に吹き出すと、く
つくつ笑いながら両手で顔を覆った。
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