第四章:声の主

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 「『こんばんは』かな?それとも『初めま して』の方がいいかな?」  適当な服に着替え、手櫛で簡単に髪を整え ると、僕は足音を忍ばせつつ階段を下りる。 月の照明に照らされた時計は、夕刻の五時を 少し回ったところで。僕は初めて会うキッズ スマイルの担当さんにどんな挨拶をするべき か、思い悩んでいた。  そもそも、莉都は僕のことをどう説明して いるのだろう?ふと、そのことに思い至り僕 はピタリと足を止める。運動会の時ははじめ 君の友だちということでその場はごまかせた けど、こうして同じ屋根の下に暮らしている のだ。さすがに友だちという嘘は通用しない。 ――と、いうことは。  僕はそろりそろりと階段を下り、ダイニン グキッチンのドアの手前で立ち止まる。そう して息を潜め、壁の陰から中の様子を窺った。  きっと莉都は、本当のことを話したのだ。  キッズスマイルの人は僕が月見里家にいる 理由も、記憶喪失だということも知っている。 そう思うと、なぜか足が竦んでしまって中に 入れなかった。  ある日突然、庭先に現れた記憶喪失の少年 を世話している。そんな非現実的な話を聞か されたその人は、僕をどんな目で見るだろう? そう考えると、緊張で足が竦んで動けない。  僕はごくりと唾を呑み、壁に張り付くよう にして耳を欹てた。すると、みんなの話し声 に交ざって穏やかな男性の声が聞こえてきた。  「だけど、頭痛が落ち着いたみたいで本当 に良かったよ。このまま治らないようなら僕 が病院に連れて行くべきか、悩んでいたんだ。 月見里ご夫妻が留守の間は、僕が君たちの親 代わりだからね。彼はこの家の子じゃないが、 だからといって見て見ぬふりをするわけにも いかない」  「本当は病院に行くべきだと思うんですけ ど、『迷惑掛けちゃうから』って言ってソラ がきかないんですよね。もし悪い病気だった ら取り返しがつかないのに……」  「そんな心配しなくても、食欲出てきなら 大丈夫なんじゃねーの?そもそも、莉都はあ いつに構い過ぎなんだよ。ちょっと頭が痛い くらいでタクシー呼んで大騒ぎしてさ。マジ で大袈裟過ぎ」  拗ねたように論平が言うと、すかさずはじ め君が「お前も嫉妬し過ぎ」と茶々を入れる。 その突っ込みに桃々がくすくすと笑い、男性 も「なんだ、そういうことか」と笑い声を上 げた。  僕は壁に張り付いたままで、目を見開く。  そして、カタカタと震える手で口を覆った。  聞こえてきた男性の声は、聞き覚えのある ものだった。夢の中の声と、リビングから漏 れ聞こえる穏やかな声が鼓膜の奥で重なる。  『空はどこからでも青いよ』  小さな空を見上げる僕に、そう教えてくれ たあの声。あの声の主がいまこの部屋の中に、 いる。 ――まさか、そんな。  僕は口から飛び出しそうになる心臓を鎮め ようと、冷たくなった両手で口を押え付けた。
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