第四章:声の主

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 「良かった。君に嫌われたらどうしようか と思った」  「僕に嫌われたら悲しい?」  「悲しいよ」  「じゃあ向坂先生は恐いことしない?他の 人たちみたいに、『実験』とか『注射』とか」  「もちろんしないよ。僕は君の嫌がること は何もしない。僕だけは君の味方だ。信じて くれるかな?」  僅かに声を潜め、僕の目を覗き込む先生に こくりと頷く。すると彼は笑みを深め、僕を、 ぎゅっ、っと抱き締めた。彼の力強い腕と服 越しに伝わる温もりに、僕は酷く安堵したの を覚えている。あの部屋に閉じ込められた日 がいつだったかは、思い出せない。けれど、 その日からずっと誰かの温もりに飢えていた 僕は、初めて『安らぎ』という言葉を知った。  ふっ、と脳裏に浮かぶ画面が切り替わる。  四方を白い壁に囲まれた、同じ部屋。傾斜 した天井には小さな窓があり、そこから温か な陽射しが射し込んでいる。木製のベッドと 机、そして本棚があるだけの僕の部屋。そこ は決して居心地が悪いわけではなかったけど、 朝から晩まで、三六五日をそこで過ごす僕に とっては、死ぬほど窮屈で退屈な場所だった。  「……先生」  「ん?」  「お腹痛い」  そう言って机に突っ伏すと、先生がため息 を吐く。僕の頬の下には一向に進まない算数 の文章問題があって、難問にぶち当たる度に 僕はお腹が痛いと言い始める。それが仮病か 罹病かを決めるのは、いつも向坂先生だ。  「朝ごはんは完食したって聞いたけど」  「食べたよ。だけど、いまは痛いの」  「なるほど。じゃあ、ちょっと休憩しよう か。ベッドに横になって、痛くなくなったら この問題を解いてみよう」  「お腹擦ってくれる?」  「しょうがないなぁ。ほら、ベッドに横に なって」  「うん!」  僕は鉛筆を放り出すと、綺麗にベッドメー キングされたベッドにダイブする。そうして、 胸の辺りで両手を組んで先生を待った。  「なんだ、なんだ。お腹が痛いって感じじ ゃなかったな。やっぱり仮病か?」  「仮病じゃないよ!本当にお腹の真ん中が 痛いんだ。早く擦って」  「はいはい」  口を尖らせると先生はお腹を丸あるく擦り 始める。僕は心地よい手の温もりと細やかな 充足感に、知らず頬を緩ませた。  「ねぇ、先生」  「ん?」  「前に空の色は太陽の光と空気が作るって、 教えてくれたよね。だから空はどこからでも 青いんだって」  小さな天窓から見える青空を見つめ、問い 掛ける。ベッドの端に腰掛け僕を見下ろして いた先生は、やんわりと目を細めた。
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