第四章:声の主

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 「……あっ、えっと。着替えて下りてきた んだけど、ちょっと、お腹痛くなっちゃって。 やっぱりオムライス、食べられそうになくて」  「うそっ、お腹痛いの?だって、お腹空い たって言うからチキンライス卵で包んだのに」  「ごめん。お腹空き過ぎて、痛くなったの かも。明日食べるから冷蔵庫仕舞っておいて くれるかな?」  首を捻りつつ、お腹を擦りつつそう言うと、 莉都は心配そうに眉を寄せ、息をつく。  「そっか。そろそろキッズスマイルの方が 帰るみたいだから、挨拶だけでもと思ったん だけど。お腹痛いなら無理しない方がいいね」  その言葉に僕がほっと胸を撫でおろし、頷 いた時だった。ダイニングキッチンの入り口 から長身の男性が姿を現し、僕ににこやかな 笑みを向けた。  「あれ、ソラ君だよね?初めまして。キッ ズスマイルの向坂です」  聞き慣れた声にその人を見た途端、僕は額 にどっと汗が吹き出してしまう。整った顔立 ちにメタルフレームの眼鏡が知的な印象を与 える、その人。温和な雰囲気を身に纏う彼は、 すっきりとした白のカットソーに黒のジャケ ットを合わせ、鞄を手にしている。 ――向坂先生だ。  記憶の中の彼と寸分違わないその姿に息を 呑み、言葉を失くしていると、傍に立つ莉都 が人差し指で、ツン、と僕を突いた。  「もう、何ぼんやりしてんの?向坂さんが 挨拶してくれてるじゃん。ソラも挨拶しなよ」  「……あっ、うん。えっと……こんばんは。 ソラです」  莉都にせっつかれ、しどろもどろに挨拶を すると、向坂先生は、ふっ、と笑みを深める。  「頭痛がするって聞いたから心配してたけ ど、顔色はそんなに悪くないみたいだ。僕は もう帰るけど、月見里ご夫妻が帰ってくるま でに症状が酷くなるようなら、遠慮なく僕に 言って。昼でも夜でも、すぐ駆け付けるから」  そう言って、ぽん、と僕の頭に手を乗せる と、向坂先生は玄関で革靴を履く。そうして、 くるりとこちらを向いた。  「じゃあ、僕はこれで失礼するよ」  「はい。色いろとありがとうございました」  「対して役に立ってないけどね。しっかり 戸締りして、火の元には気を付けて」  「はいっ」  にこやかにやり取りをする二人を呆然と見 つめていると、彼はあっさりと家を出てゆく。 僕は玄関のドアが閉まった瞬間、ぽかんと口 を開けてしまった。  「……帰っちゃった」  「うん。せっかく来てもらったのに、やる ことがあんまりなくて。早めに事務所に戻ろ うかなって言ってたから、他にやることある のかも」  「いまの人、前からこの家に来てたの?」  「ううん、今日が初めてだよ。新しくキッ ズスマイルに入ったみたいでね。覚えること がたくさんあって大変だって言ってた」  「……そうなんだ」  嘘で固めた話をすっかり信じ切ってる莉都 に、僕は不快感を隠せなかった。そんな僕の 胸奥など知る由もない莉都が、眉を寄せ、口 を引き結んでいる僕を心配そうに覗き込む。
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