おちる

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 そんな災厄の日の訪れはすぐだった。  各地に散らばる地方神殿の一つ、最北端にあるそれの結界に異常が見られるとの知らせを、エミディオはその日受け取った。予言の話もある。当時一番と言われた神力の使い手であるエミディオも、当然ながらその調査に同行をする事となった。  現地に到着して、エミディオはすぐに気付いた。結界の綻び程度の話では無い、この地には時空の亀裂が発生していると。  時折この地では、時空が歪み悪魔達の巣窟に繋がってしまう事があった。時空の亀裂が拡がれば、漂うだけで人に害を及ぼす邪気と共に、数多の悪魔がこの地にやって来ると言われている。実際、飛び出てきた悪魔に神官達が犠牲となる事も少なくなく、見つけ次第一刻も早く塞ぐのが神官達の役目でもあった。  神官長たるエミディオはすぐさま命を下した。結界と時空の亀裂の修復をせよと。  結界の修復は、然程手のかかることでは無い。一般的な神官達でも務まる役目だ。エミディオは、彼の駐留する中央神殿より同行させた神官達を結界の修復へと回し、一方で時空の亀裂の修復には熟練の神官達を連れてエミディオ自身も赴く事となった。  結界の修復とは違い、間違いなく神力を喰う時空の亀裂の修復は、万全を期して保有量の多いエミディオが中心となって執り行う事となる。  予言の事もある。亀裂を目の前にしたエミディオは、その邪気の禍々しい事に眉根を寄せながらとっとと終わらせるべく、急ピッチで儀式を進めたのだった。  あと一言、祝詞を紡ぐだけで終わる神聖な儀式の終わりに。それは突然妨害された。  目を閉じ、神力を注ぎ続けていたエミディオの背を、突き飛ばす手があった。  儀式の途中だったのだ。無防備にも、身体は前へと押し出され、亀裂の隙間へと上半身からゆっくりと倒れて行く。  息も止まらんばかりに驚き、何の抵抗も出来ずに飛び込んでしまったエミディオは、地面に手を着いた途端、その場に充満する邪気を多量に吸い込んでしまう。  地面に叩き付けられ、咳き込みながらも何とか振り返ったエミディオの目には、邪悪に歪むとある神官の顔が飛び込んできた。亀裂が閉じ切る間際、エミディオはその男の声を耳にした。 「貴様の意思は私が継ぐと伝えておこう。こうなるならば一度、貴様を犯しておくべきだったな」  それが、エミディオが最期に聞いた人間の言葉だった。眩い光を放ちながら綺麗に修復されていく亀裂を眺めながら、エミディオはその場に立ちすくんだ。  逃げ場もない、助けも無い、絶望しかない今のエミディオに、唯一残された道は【死】、それのみであった。  生まれてこの方、一日も欠かさずに神気を蓄え続けてきたエミディオは、邪気には多少の耐性がある。しかし、それは人間界に限ったことであって、邪気の充満する悪魔の世界では神力の有無なぞほとんど無意味なものであった。  邪気にこそ満たされた世界に放りこまれれば、いくらエミディオ程の神官とは言え、多目に見積もっても持って小一時間。神力が尽きれば、これ即ち瞬く間に悪魔達の餌と成り果てる。逃げ道なぞなかった。  徐々に苦しくなってきた呼吸と、喉の奥から込み上げてくる血臭を感じながら、エミディオは悪魔の世界をゆっくり進んでいった。空はどす黒く木々も緑もない。平地と岩山と、血の川が続く物悲しい所だ。  時折襲ってくる悪魔を蹴散らしながら、物見遊山でもするかのように、彼は一人とぼとぼと歩いた。一人は平気だ。エミディオはいつも一人だったから。  そうして見て回ることで、エミディオは一つ合点がいく。この空間が、途方も無く寂しい所であって、成る程、悪魔達が地上に出たがる気持ちも分かるような気がする、と。そんなような取り留めのない事を考えて、エミディオはひとりぼっちで進む。  何かを考えていないと、抗うことも出来ない恐怖に押し潰されそうで、兎に角何でも、頭を過ぎるものを片っ端から考えていった。一歩一歩、ジワジワと近付いてくる【死】を考えないように、誤魔化すように。  気付くと、エミディオはその場で崩れるようにへたり込んでいた。抑え切れなくなった邪気に焼かれ、ゴボゴボと血が滴り落ちてくる。エミディオは苦しかった。  こんな事ならば、とっとと悪魔にでも何でも喰われてしまえば良かった。そうは思えども、神子として神官として、常に悪魔達との戦いに晒され続けてきたエミディオは。この死地にあってさえ下らない何の足しにもならないちっぽけなプライドを、無意識に守ろうとしてしまうのだった。  エミディオが膝をついた途端、攻撃を警戒しつつもグルグルと喉を鳴らした悪魔達が周囲に集まる。どれもこれも醜い姿のものばかりで、こんな奴等に喰われるのは癪だなぁなんて贅沢な事をエミディオは思う。さて、どの畜生が自分という馳走を手にするのだろうか、ぼんやりと頭の片隅で揶揄ってやりながら、エミディオは足掻こうとした。  その時突然、ふと気付く。彼の元へゆっくりと、真っ黒い獣が目の前に近付いてくるのだ。その獣は悪魔達からしてもどうやら別格の存在のようで、ソレが通るだけで自然、道が開いた。  悪魔にしては毛並みの良いそれは、彼ら悪魔達の中にあっても理性を感じさせた。涎を垂らすこともなく、真っ赤な眼が6つ。なる程これは、連中の中にも随分とマトモなのも居るのだな、そんな事を思いつつもエミディオの口は無意識に弧を描いた。コレに喰われるならば文句もない。  地獄のブラックドッグは、地上でも神官達にすら恐れられているから。例え、何にエミディオが喰われる事になるのかを人間達が知る事は永久に無いにせよ、終わらせる瞬間位は選びたいとエミディオは思うのだ。  誰にも知られずに死んでいくその恐怖に全身を浸しながら、エミディオは最期の抵抗を試みるべく震える利き腕を目の前に突き出した。その時だった。 「何事だ」  エミディオは最早朦朧とする意識の中で突然、聞き間違いかと思うほどハッキリと人の声を聞いた。  このような所に人間など存在出来る筈もない。ならば声の主は悪魔であるはずだ。とは言え、人型の悪魔が存在するなど、エミディオは聞いたことがなかった。彼が未だ年若いからか、それとも彼が他の神官達に嫌われていたからか、最早その原因を確かめるスベは無い。だがエミディオは、いっそこれは夢なのでは無いかとすら、この時思ってしまったのだった。 「何故人間がここに居る」  霞む意識で、エミディオは近寄ってきたその悪魔を見上げた。そして純粋に思うのだ。このような場所にあっても、何と美しいモノがいるのだろうと。先ほどの真っ黒い悪魔も確かにそれなりではあったのだが、今目の前に立つ人型の悪魔程の存在を、エミディオは今までに見たことがなかった。その衝撃に、今し方何をしようとしていたかも忘れ、エミディオは惚ける。既に限界はとうに過ぎており、意識が朧げなせいもあるかもしれない。  それでも確かに、エミディオはかつてないほどの衝撃を受けていたのだった。  その間も、彼の口端からはボタボタと引っ切り無しに命が零れ落ち、衣服やら地面やらを赤黒く染め上げていた。 「おい人間、貴様、何しにここへ来た?肺が爛れーー」 「そなたはあくまか?」  エミディオは声を上げた。人と話すのは随分と久々な事のように錯覚してしまう。つい小一時間前までは、普通の暮らしをしていたと言うのに。此処での出来事は、エミディオの記憶をすら曖昧にするらしかった。 「ほんに、うつくしい……」 「あ?」 「ひとがたのあくまは、はじめてだ……だれも、おしえてはくれんかった……そうだ、そとにはでたこともない……」 「……人間、貴様死ぬと分かってなぜここに居る」 「なぜ? ――ああそうだ。あやつ……わたしにしねと、いったの……それならいっそ、おぬしのようなものが、いい、どうせたすからん。ーーおぬし、ひとのにくは、くうか?」  最早、エミディオは足掻く事も忘れてしまった。自分で何を言っているのかすらも解らず、まるで独り言のように呟く。最期の力を振り絞り再び腕を上げると、悪魔が眉根を寄せたのが分かった。しかしその悪魔は、既にエミディオに反抗する力すら残されていない事を分かっているのか、抵抗する事は無かった。  段々と顔を近付ける事で、その悪魔の色がはっきりとエミディオにも見えるようになる。人のそれとは違う、冷徹な美しさを孕んだその容姿もさることながら、浅黒い肌に光る赤い眼と銀色に輝く髪は、何故だか酷く惹かれた。  そしてエミディオは、ゆっくりと近くにあったその首筋に震える手を添えると、ぐいと自分の方へと引き寄せた。最早引き寄せる力も弱々しかったろうに、悪魔はまるでその首を捧げるようにエミディオに従った。誘うように、口と口がつきそうな距離まで近付いてから。  エミディオは朦朧とする中で言う。 「わたしを……く、ろうては、くれんかーー?」  ギラギラと鈍く光るその赤に血に濡れた自分の姿が映し出されたのを見て。それっきり、エミディオはその場で気を失った。  これで、自分は死んだのかもしれない。そんな事を最期に思いながら、苦しみも何もかも忘れてエミディオはようやく安らぎを得たのだった。
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