最後の言葉

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最後の言葉

長い追憶から徐々に覚醒し、瞼の向こうで揺らいだ炎がパチリと音を鳴らした。ミハルはうっすらと瞼を持ち上げ、まつ毛の隙間から視界をたどる。  暖炉の中で、ゆらめく炎がオレンジ色の光を放っていた。あんなに冷たい水に落ちたと言うのに、今は包み込まれたように背中が暖かい。心地の良い圧力に顔を上げると、瞼を閉じたライニールの姿があった。  ミハルの体を毛布でぐるぐるに包み、ライニールはそれを背中から抱き抱えるようにしてソファで寝そべり寝息を立てている。  体の感覚も目を覚ました。柔らかな毛布の素材が直接肌に触れている。濡れた衣服を脱がせてくれたのだろう。ミハルはライニールの腕の中でもそもそ寝返りをうち、彼の胸元にぐりぐりと額を押し付けた。 「起きたのか」  寝起きで少し掠れた声が頭の上で静かに言った。 「まだ、です」 「チッ、起きてんじゃねえか」  しかし、ライニールは手の位置を少し変えただけで、ミハルの体を無理やり起こそうとはしなかった。 「ライニール様」 「あ?」 「ごめんなさい、あの人の記憶……たぶん、俺がほとんど食べてしまいました」  ライニールは少しの間沈黙した。しかし、また暖炉でパチリと音が鳴ると、それを合図にしたかのように話し始める。 「あの池にはたぶん魔力だまりがあったんだ。だから追蹤玉が溶け出して、それをお前が飲んじまった」 「そうなんですね」  ミハルは自らの胸元に手を当てた。追蹤玉が頭ではなく胸から取り出すと言うのは何とも皮肉だ。あれは、記憶というよりも感情なのかもしれない。 「どこまで吐いちまったんだ」 「はて?」  ミハルは顔を上げた。ライニールの表情が間近でミハルを見下ろしている。もう少しだけ上向けば、ライニールの口元にミハルの鼻先が当たりそうだ。 「どこまで、覚えてるんだって聞いてる」  ミハルは視線を滑らせ自分の記憶を辿った。 「何を忘れたのかはわからないですねえ。でも、ライニール様はお野菜が嫌いで、昔魚の小骨が喉に刺さったことは覚えています」 「チッ、クソが」  ライニールは何故か、ミハルの体を抱き寄せた。ライニールの胸元にミハルはまた顔を埋める。 「ライニール様」 「あ?」 「……あの人は、俺の中には戻って来ないようです」 「わかってる。追蹤玉を全て抜き取られたら、そいつは死んだのと一緒だ」  ミハルはあの人の記憶に強く同調した。追蹤玉の記憶の中で、ライニールはあの人をミハルと呼んだ。それがどういうことなのか、ミハルは理解している。しかし、この体であの人の追蹤玉を取り込んでも、追憶から醒めれば、あの時の出来事はミハルにとっては自分ではない誰かの記憶になってしまう。 「ライニール様」 「あ?」 「あの人は、最後にあなたの名前を呼んでいました」 「……そうか」  ライニールが息を詰まらせ、その喉元が上下した。 「そして、言っていました」  ミハルは手をつき体を起こした。毛布が滑り、皮膚が暖炉の炎でオレンジ色に浮かび上がる。ライニールは黙ったまま、ミハルの表情を見上げた。 「ライニール、愛してる」  その瞬間だけ、ミハルは自分ではないあの人をその瞳の中に宿したのだ。  ライニールはミハルの頬に手を伸ばした。その体温がミハルの皮膚を撫でる。黒い双眸が一瞬炎を移して煌めいたのちに硬く閉ざされ、そこから涙がこぼれ落ちる前に大きな手のひらが目元を覆い隠した。  ミハルはそのライニールの頭を抱えるように腕を回して抱き寄せる。ライニールはミハルの胸に顔を埋め、縋り付くようにその手を背中に滑らせ、ミハルの体を強く抱きしめた。
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