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第16話 ふたつの爆弾発言
イリーナが目を覚ますと、すぐ隣でゼノンが眠っていた。
クリーム色に近い淡い金髪が、昇ったばかりの朝日に照らされて青白く輝いている。
眠っている顔は不思議なくらい穏やかで、心なしかいつもより若く見える。
(あれ? なんで、閣下がいるんだろう?)
寝ぼけ眼で見つめるうちに、だんだん意識が覚醒してくる。
(んぅ……ひぇっ!)
無音の叫び声を上げながら、イリーナは飛び起きた。
ローテーブルの上に残されたティーセットが視界に入った途端、サーッと血の気が引いてゆく。
(うわぁぁぁ、またやっちゃったぁぁぁ!)
昨夜はお酒を飲んでいない。なのに、イリーナの記憶はゼノンの腕の中で途切れている。
おそらく、王弟派に狙われる可能性に情けなくも怯えた挙句、ゼノンによしよしと頭を撫でてもらったまま寝落ちしてしまったのだろう。
昨日の魔鳥騒ぎで、きっとゼノンも疲れていたのだろう。イリーナをベッドまで運んで、一緒に眠ってしまったに違いない。
頭を抱えたままイリーナが固まっていると、ゼノンがわずかに身じろぎした。
「ん……イリーナ? 起きたのか?」
もぞもぞとゼノンが体を起こす。
さすがの白鷲騎士団団長も寝起きは悪いのだろうか。髪をかき上げたまま額を押さえている。
その色気溢れる姿は神々しくもあり、見てはいけないような気がしたので、イリーナは俯きながら蚊の鳴くような声で「はい」と答えた。
「そうか。よく眠れたようで良かった」
ふわりとゼノンが笑う。
その笑顔に釘付けになっていると、思いもかけない言葉が降ってきた。
「そうだ……魔鳥のせいで昨夜は話せなかったが、離婚の件は諦めてくれ。俺はイリーナと穏やかな家庭を築きたい。俺が隣にいることを、許してくれないか?」
ゼノンの手がイリーナの頬を包み、寝起きで無防備だった額に、口づけが落ちてくる。
(ひっ!)
カァッと頬が熱くなった。きっと顔は赤く染まっているだろう。
恥ずかしいような、嬉しいような、よくわからない感情が溢れてくる。
それでもイリーナは、爆発寸前の頭を落ち着かせて必死に頷いた。ここで答えを躊躇ったら、また誤解されてしまう。それだけは絶対に嫌なのだ。
(許しを乞うのは私の方なのに……)
「……良かった。俺はどうも、肝心な事がなかなか言えない性分のようなんだが、これからは努力するつもりだ」
まるで少年のようにはにかむゼノンに、イリーナはとどめを刺されたのだった。
〇 〇
「おはよう……ございまふ」
朝の出来事がまだ尾を引いたままの頭で、イリーナは出仕した。
ボーっとしたまま救護室の扉を開けると、アレクがお茶を淹れていた。
「おはようイリーナ。昨日は大変だったみたいだね。団長と王宮に行ったきり戻って来ないから、ミレシュと一緒に心配してたんだよ」
「あ、そういえば……ご心配をおかけして、すみませんでした」
アレクに言われるまで忘れていたが、昨日は業務時間内に救護室に戻れなかったのだった。
「……あれ、ミレシュは?」
いつもなら一番に来ているのに、珍しくミレシュの姿がない。
「ん、今日は薬問屋に直行するから、来るのは午後になると思うよ」
「あぁ、そう言えば……そんなこと、言ってましたね」
自分の机の下に鞄を置き、さて何から始めようかと辺りを見回していると、横からアレクがぬっと顔を出してきた。
「わ!」
いつもながら、アレクの気配の薄さにはびっくりする。
背は高いが非常に瘦せている彼は、筋骨隆々の騎士たちの中にいると、同じ男性とは思えないほどヒョロヒョロに見える。痩せているせいか、彼の足音を聞いたことは一度もない。
思わずのけ反っていると、アレクがにっこり笑ってカップを差し出してきた。
「イリーナの分もお茶淹れたから、休憩しない? どうせ暇なんだからさ」
「休憩って……」
まだ仕事を始めてもいないのに、とイリーナは思ったが、暇なことは事実なので、アレクに促されるまま休憩スペースに足を向けた。
「イリーナが結婚したの、正直ショックだったんだ。しかも、相手がまさかの団長だし」
アレクはいつもの穏やかな笑みを浮かべながらそう言った。
彼は、イリーナが救護室に入った時から治療師として勤務していた、いわば直属の上司であり先輩だ。確か年齢もゼノンより上のはずなのに、いつも友達のように接してくれる。
(アレク先生とミレシュには、いつか目を見て話せるようになるといいな)
ホンワカと温かい気持ちになりながらお茶を飲んでいると、イリーナの目の前にずいっとアレクが身を乗り出して来た。
「で、ぶっちゃけ、無理してない?」
「へ?」
「ほら、イリーナって何でも我慢しちゃうじゃない? 自分さえ我慢すればって。あれって良くないと思うよ」
「はい。あ、いえっ、本当に大丈夫です。閣下はとても誠実な方なので、私とも真剣に向き合ってくださいます」
「団長じゃなくて、僕はイリーナの気持ちを聞いてるんだよ?」
「あ……私も、もっと前向きに、この結婚に向き合おうかな、なんて、思ってます」
うっかり今朝のことを思い出して顔を赤らめていると、突然アレクが「うわぁ……マジか」と呻き声を上げた。
「まぁ、僕がグズグズしてたのがいけないんだよね。いくら大事にしたいからって、のんびりし過ぎてたよ。でもさ、まさか空から鷲が飛んで来て、宝物を攫って行くなんて思わないだろ?」
何やら意味不明なことを言って、アレクががっくりと肩を落とす。
「ええと……そう言えば、アレク先生、ご結婚は?」
苦し紛れに質問を投げかけると、アレクがパッと顔を上げた。
「してないよ。僕は半分、ラーヴァン人の血が混じってるからね。希少な治療師でも、なかなか自分ちの娘を嫁がせようとは思わないんじゃない?」
サラサラの黒髪をかき上げながらアレクは笑う。
ラーヴァン王国は、〈魔樹海〉を挟んで南にある国だ。
昔、別の大陸から渡ってきたというラーヴァン王国の民は、大多数が黒髪の民だと聞く。国交がほとんどない上に、淡い髪色の人が多いグランウェル王国にいると、黒髪のアレクは確かに目立つ存在だ。
「そんなことないですよ。アレク先生みたいな優しい人なら、結婚したいと思う人はいると思います!」
イリーナが力説すると、アレクはくしゃっと顔を綻ばせた。
「なら、団長と離婚したら、イリーナが僕のお嫁さんになってよ」
「あ……」
イリーナは蒼白になった。
昨日アレクとミレシュに聞かれた時、この結婚は離婚が前提だと、自分の憶測を話してしまったのだった。
「あの……ええと、実は、閣下に聞いたら、離婚はしないと、言われました」
申し訳なくて頭を下げたまま俯いていると、本日ふたつ目の爆弾が降ってきた。
「ならさぁ、逃げたくなったらいつでも言ってよ。僕がイリーナを連れて逃げてあげる!」
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