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第17話 最初の一歩
「────イリーナ? どうかしたのか?」
ゼノンの声にハッと我に返る。
フェルラント小邸のダイニングルーム。目の前のテーブルにはマーゴが作ってくれた夕食が並び、その向こうに私服姿のゼノンがいる。
「あ、いえ。少し考えごとを……」
イリーナは慌てて笑みを浮かべた。
いくらゼノンが寛容な夫でも、妻が職場の上司から求婚まがいの言葉をかけられたと聞けば、良い気はしないだろう。
そう。イリーナはアレクのことを考えていた。
治療師のアレクと知り合ったのは、救護室で働き始めた一年前だ。
ひょろりとした体に、グランウェル王国には珍しい黒髪。いつも笑顔で軽口をたたくが、けして不真面目なわけではない。
討伐では、治癒魔法をかけるべき重症の者と、救護助手でも手当てできる軽症の者を一目で見極めて指示を出す姿には、尊敬の念すら抱いていた。
(でも、個人的な事は、ほとんど知らないのよね……)
黒髪から、彼が異国の血を引くことは薄々わかっていたけれど、彼から個人的な話を聞いたのは今日が初めてだった。
「何か悩み事か?」
「い、いえ、大したことじゃ……ないのですが、ええと、昨日の方は、ちゃんと喋ってくれましたか?」
苦し紛れに、ゼノンの質問に質問を返してみる。
マーティ・ヴルジュのことなど少しも考えていなかったが、魅了の効果は気になっていた。
「あの大馬鹿野郎のことを考えていたのか?」
ゼノンが怒ったように目を細める。
イリーナはビクッと肩を揺らしながら言い訳をさがした。
「ええと……魅了の効力が切れてしまったら……と思って」
「ああ、そういう事か。なら心配は無用だ。すでに聴取は終わっている。念のため時間を置いて同じ質問をしたが、答えは同じだった」
「それじゃ、彼に〈守りの塔〉へ行くように命じた人が、誰か、わかったのですか?」
「ああ。奴をそそのかしたのは、ヴルジュ侯爵家お抱えの商人、クリッチャイという男だった。いま王国騎士団が捜索しているからすぐに捕まるとは思うが……」
ゼノンの言葉は、珍しく歯切れが悪い。
「何か、気にかかることが、あるのですか?」
「いや……マーティの供述どおりなら、ヴルジュ侯爵は魔鳥襲撃計画を知らなかったことになる。それがどうも、腑に落ちないんだ」
「確かに。知っていたら、息子を使ったりしませんよね」
イリーナも首を傾げた。
「その、クリッチャイという方は、どんな商いをしているのですか?」
「貴族お抱えの商人は、貴族が欲しいものを手に入れるためなら東奔西走する。いわば何でも屋だ。元々どんな商売をしていたのかは知らないが、貴族に食い込むなら宝石商あたりだろうな」
「私に、何かお手伝いできることはありますか?」
「いや……俺と結婚したことで、どういう訳か、イリーナに注目が集まってしまっているらしいんだ。どこに目があるかわからない。できるだけいつも通りにしてくれ」
「はい」
イリーナは素直に頷いたが、なんだか可笑しくて自然と口元が緩んでしまう。
(閣下って、自分の結婚が注目されないとでも思ってたのかな? 自分のことって、案外見えないものなんだなぁ)
その夜────。
イリーナが寝台の中で本を読んでいると、ゼノンが寝室に入ってきた。
「今夜から俺もここで休むことにした」
穏やかな表情で微笑むゼノンを見て、イリーナは固まった。
「え……と」
イリーナが戸惑っているうちに、ゼノンは寝台の反対側に腰かけてしまう。
「今朝も言ったが、俺はイリーナと穏やかな家庭を築きたいと思っている。少しずつで良いから、俺が傍にいることに慣れて欲しい」
「それは、もちろん……ですが、どうか、無理はなさらないでください」
「無理などしていない。むしろ、おまえが新しい生活に慣れるまではと、今まで遠慮していたんだ」
「えっ、と、それは」
イリーナは無意識に、傍にあった大きなクッションにしがみつく。
「ああ、大丈夫だ。ちゃんとした婚姻の儀式を上げるまでは、神に誓っておまえに触れたりしない。いや……まったく手を触れないとは誓えないが、隣で休むだけだ。信じてくれないか?」
「は……い」
ここまで言われてしまったら、拒むことなど出来ない。
「おやすみ」と照れながら布団の中に滑り込むゼノンに、「おやすみなさい」と微笑み返すのが精一杯だった。
その夜イリーナは、クッションを抱きしめたまま布団の中に頭まで潜り込み、彼に背を向けて目を閉じたのだった。
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