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第18話 呼び出し
翌朝。いつものように、イリーナはゼノンの手を借りて馬車を降りた。
騎士団本部の車寄せに降り立った途端、ゼノンの手がイリーナの頬に添えられ、反対側の頬にチュッとキスが降ってきた。
「何かあったらすぐに連絡してくれ。では、また帰りに」
「…………はい」
踵を返して歩いて行くゼノンの背を見送りながら、イリーナは今にも膝から崩れ落ちそうだった。
(はぁぁ~)
救護室に向かって廊下をトボトボと歩きながら、イリーナはため息をついた。
昨夜は一睡も出来なかった。隣でゼノンが安らかな寝息をたてはじめても、鼓動が静まってくれなかったのだ。
寝落ちしてしまった一昨日とは違う。最初からゼノンが隣にいるとわかっていて、どうして眠ることが出来るだろう。
(閣下と同じ寝台でなんて、眠れるわけない……)
今朝は、明るくなる前に寝台から抜け出した。
自分の部屋に戻って身支度を整え、朝食の席でも必死にいつも通りを装ったのに────仕事場を目の前にして、とどめのキス。
夫婦関係に前向きに取り組み始めたゼノンは、まるで挨拶でもするように自然な流れでイリーナに口づけしてくる。
(額や頬でこうなんだから、口にされたら死んでしまうっ!)
残念ながら、初日の夜にした口づけは、酒のせいでイリーナの記憶からすっぽり抜けている。
白鷲騎士団団長のゼノンと、夫のゼノンとではあまりにもギャップがあり過ぎて、イリーナの心臓は持ちそうになかった。
「おはようイリーナ! あれれぇ、今日も元気ない?」
救護室の扉を開けた途端、元気いっぱいのミレシュが不思議そうに首を傾げる。
昨日もミレシュには心配をかけた。午後から出仕してきた彼女は、アレクの言動でパニックに陥っていたイリーナを気遣ってくれた。
(昨日のは、アレク先生の冗談だったのかも)
一日経った今は、そう思う。
「お、おはよう」
口端をひきつらせながら挨拶をすると、救護室の奥にいたアレクが「おはよう!」と屈託のない顔で手を振ってくる。
「桃栗亭の渋皮マロンケーキ買って来たから、お茶にしようよ!」
アレクは昨日同様、仕事の前から休憩を提案してくる。
「わぁ、桃栗亭のケーキ! 並ばないと買えないヤツですよね? アレク先生ってば、どうしたんですか? 今まで何か買ってきてくれた事なかったのに」
「ん~、何て言うか、ささやかなお祝い、的なやつ?」
アレクに視線を向けられて、イリーナはビクッと肩を震わせた。
「ああ、イリーナの結婚祝いですね。確かに、あたしたちがお祝いしてあげないと、イリーナが可哀想過ぎますよね!」
ミレシュにはまだ離婚の話を訂正していない。なので、彼女はイリーナの結婚に同情的だ。彼女はパタパタとアレクに駆け寄り、ケーキの箱を受け取っている。
イリーナも休憩スペースへ足を向け、ミレシュを手伝って三人分のお茶を淹れた。
(桃栗亭の渋皮マロンケーキなんて、お父さんが裕福だった時に食べて以来だわ)
昨日のアレクには驚かされたが、ケーキに罪はない。
丸いスポンジの上に乗っている渋皮マロンクリームの山を、イリーナは有難くいただくことにした。
「でもホント、いきなり魔鳥が現れた時はびっくりしたよね?」
ミレシュの心遣いなのか、イリーナの結婚祝いと銘打ってはじめた休憩なのに、話題はもっぱら魔鳥のことだった。
「ゼノン様が一瞬で仕留めたって聞いたけど、城下じゃみんな不安がってたよ。魔獣避けの防御網も当てにならないって。どこかの貴族が言ってるみたいに、いっそ〈魔樹海〉を焼き払えば良いんじゃないかって話でもちきりだったよ」
「え、その話って、みんな知ってるの?」
つい先日、ゼノンからその話を初めて聞いたイリーナは、驚きを隠せない。
ミレシュの言うどこかの貴族とは、王弟派のヴルジュ侯爵で間違いないだろう。
「その話って、〈魔樹海〉を焼き払う話? もちろん、みんな知ってるよ」
きょとんとするミレシュの隣で、アレクがくくっと目を細めて笑う。
「イリーナは世情に疎いよね。まっ、そこが可愛いんだけどね」
「わ、私……ほんとに、情けないです……」
イリーナがしゅんと肩を窄めた時だった。
コンコン
上品なノックの音がした。
「はい」とイリーナが席を立って扉を開けると、そこには、王宮侍女のお仕着せを着た美少女が立っていた。
ミレシュよりもやや年下だろうか。ぱっちりした大きな藍色の瞳と、ゆるふわの金髪が何とも愛らしい。
「イリーナさんはいらっしゃる?」
「あ、私、ですが?」
「えっ、あなたがイリーナさん? ゼノン・フェルラント様と結婚した、イリーナさんで間違いない?」
よほど信じられないのか、彼女は眉をひそめてもう一度確認してきた。
驚いたように口元に添えられた白い手。目下の者を見下すような高慢な眼差し。彼女はきっと、上位貴族の令嬢だろう。侍女のお仕着せを着ているが、王族女性の侍女は上位貴族の令嬢しかなれないと聞いたことがある。
「あなた、ちょっと、裏庭まで来ていただけないかしら?」
「え、今、ですか?」
「そう、今すぐよ!」
「で、では、少しお待ちください」
イリーナは一旦ミレシュとアレクの傍に戻り、離席する許しを請うた。
「ひとりで大丈夫なの? あたしもついて行こうか?」
ミレシュはそう言ってくれたが、イリーナは大丈夫だからと断った。
少女の後について、無言のまま廊下を歩く。
もしや、裏庭へ行ったら彼女の仲間がいるのではないかと思ったが、その心配は無用だった。木々に囲まれた裏庭に人影はなかった。
少女は裏庭に着くと、くるりと振り返ってイリーナに向き直った。
「あなたは、ご自分がゼノン様に相応しいと思っているのですか?」
眉をひそめていても美しい藍色の目には、怒りが込もっている。
休暇が明けて、イリーナとゼノンの結婚が知れ渡っていると知った時から、いつかこんな風に糾弾されるのではないかと思っていた。
彼女の言う通り、イリーナとゼノンでは全く釣り合いが取れない。
イリーナ自身、自分が相応しいとは思っていない。けれど、ゼノンはそんな自分に歩み寄り、穏やかな家庭を築きたいとまで言ってくれた。
(閣下に、相応しい人になりたい)
イリーナの心に、初めて、強い思いが溢れてきた。
目の前に立つ見知らぬ少女に、この想いを伝えたかった。
「今の私は、相応しくありません。ですが、相応しくなれるよう、出来る限りの────」
伝えたいと思った言葉は、最後まで言えなかった。
突然、布で口を覆われた。
初めて嗅ぐ匂いに頭がくらくらした。
目の前の少女が驚いたように目を見開き、何か叫んでいるのに、彼女の声は聞こえない。
(何が……)
浮かんできた疑問も、霞がかかったように不鮮明になり────イリーナは意識を失った。
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