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第19話 誘拐
気がつくと、窓辺から赤い光が差し込んでいた。
もう夕方なのね────と思ったところで、イリーナはハッと我に返った。
(ここは、どこかしら?)
見たことのない部屋だった。
床も壁も板張りで、イリーナが横たわっている寝台とサイドテーブルの他には、小さなタンスしかない。とても狭い部屋だが、幸い不潔ではなさそうだ。
天井が低くて、斜めの壁に窓がついている。どうやらここは、どこかのお屋敷の屋根裏部屋らしい。
一通り部屋を見回したところで、イリーナは痛む頭を手で押さえようとした。が、どういうわけか身動きが出来なかった。
背中に回された腕と、足首が縄で縛られている。
イリーナは何度か起き上がろうともがいてみたが、上手くいかなかった。
(両手と両足が動かないと、案外起き上がれないものなのね)
自分でも不思議なほど、イリーナは落ち着いていた。
拉致された時に嗅がされた薬のせいで、もしかしたら頭の感覚が鈍くなっているのかも知れない。
(しっかりしなくちゃ。動けなくても出来ることはある)
寝台に横たわったまま、イリーナは唇を噛みしめた。
(拉致された時のことを、出来るだけ正確に思い出してみよう)
イリーナは、侍女服の令嬢に呼び出され、彼女と一緒に裏庭へ行った。
そこで、いきなり布で口を塞がれた。たぶん、襲撃者はイリーナの後ろにいたのだ。
(あの時、裏庭には誰もいなかった。でも、木々の間に潜んでいた可能性はある、よね?)
最後に見えたのは、驚いたように目を見開く少女の顔だった。彼女は何か叫んでいたが、頭が朦朧としていたイリーナには何も聞こえなかった。
(彼女は、何を言ってたんだろう?)
気になることがあるとすれば────彼女の行動だ。あんな場面に出くわしたら、普通なら怯えて逃げ出しそうなのに、彼女はそうしなかった。
金銭目的の人さらいなら、誰が見ても貧相な救護助手より、愛らしい上級侍女をさらうだろう。
(やっぱり……最初から、私を狙っていた?)
背筋がゾクッとした。
王弟派の人間に、魅了の魔法が使えると、知られてしまったのだろうか。
ゼノンの突然の結婚は、傍から見ても不自然だった。ノエル王子と親しいゼノン。彼の相手としては身分が低すぎるイリーナに注目したのは、ゼノンを慕う令嬢ばかりではないはずだ。
(閣下は、怒っているかしら? それとも、心配してくれているかしら?)
今思えば、イリーナの行動は不注意だった。
誹謗中傷があるなら、あの場所で聞けばよかったのだ。のこのこ裏庭までついて行った挙句に捕まってしまうなど、あってはならない事だった。
気がつくと、さっきまで差し込んでいた赤い光は消え、部屋に帳が下りていた。
暗くなった部屋の寝台から、イリーナは閉じた扉を見つめた。
今にもあの扉が開いて、誰かが現れるのではないか。イリーナを脅して、魅了の力を悪い事に使おうとするのではないか。最悪の場合、殺されてしまうのではないか。
恐ろしい考えばかりが、イリーナの頭を駆け巡る。
(でも……これは私の失態だ。閣下には、絶対に迷惑をかけられない。どんな目にあっても、私の秘密は守り抜かなきゃいけない)
震えながら決意を固めたとき、扉がガチャっと鳴った。
(鍵が、開いた?)
瞬きするのも忘れて見つめていると、キィーと音を立てて扉が開いた。
扉から入って来たのは小柄な女性のようだった。ランプを片手に下げ、もう片方の腕には籠のようなものがぶら下がっている。
入って来たのが女性とわかって、イリーナは少しだけホッとした。
パタンと扉を閉め、彼女はイリーナの傍へやって来た。サイドテーブルにランプを置き、籠をベッドの上に置くと、彼女は椅子を引き寄せて寝台のすぐ近くに座った。
ランプの灯りに照らされた顔を見て、イリーナはハッと息を呑んだ。
「あ、あなたは!」
「ごめんなさい! こんな事になるとは思わなかったの。ゼノン様が結婚したと聞いて……どうしても許せなくて、家で不満を言っていたの。そうしたらお父様が、
「そんなに不満なら相手を裏庭に呼び出して叱りつければいい」と仰ったの。
あの時は、とても良いことのように思えたわ。でも、それがまさか、あなたを捕らえるためだったなんて……本当に知らなかったの!」
彼女はイリーナを呼び出した少女だったけれど、涙を浮かべて謝る彼女は、嘘をついているようには見えなかった。
「あなたのお名前を、教えてくれますか?」
「あ、わ、私は、ミランダ・ホルヴァート。ホルヴァート伯爵家の長女です」
イリーナの意図を察したのか、彼女は動揺しながらも、貴族の令嬢らしく胸に手を当てて名乗ってくれた。
「ここは、あなたの家ですか?」
「ええ。王都の屋敷の最上階にある侍女部屋よ。あの、食べ物を持って来たの。縄は解いてあげられないけど、私が食べさせてあげるから食べてちょうだい」
ミランダは籠の中からサンドウィッチらしきものを取り出して、イリーナの口元に寄せてくれたが、イリーナは首を振って断った。
「どうして? 毒が心配なら半分私が食べるわよ?」
「いえ。食事より、私がここに連れて来られた理由を知りたいです。教えてくれませんか?」
「あ……そうよね。でも、私もよくわからないの。お父様にあなたのことを尋ねたけど、何かを確かめてから、王弟殿下に会わせるとしか教えてくれなかったわ」
「王弟殿下に?」
「そう。私も不思議に思って訳を聞こうとしたのだけど、お父様に部屋から追い出されてしまったの」
ごめんなさい、とミランダは呟いた。
「いえ。殺される訳じゃないとわかって、安心しました」
イリーナは彼女を安心させようと微笑んだ。
ここに食事を持って来てくれたのも、情報を与えてくれたのも、ミランダの誠意だ。父親には逆らえないとしても、出来る限りのことをしてくれた。そんな彼女に敵意は抱けない。
「さぁ、少しでもいいから食べてちょうだい」
ミランダが泣きそうな顔でサンドウィッチを差し出してくる。正直食欲はなかったけれど、少しだけ食べさせてもらった。
◇◇
ミランダが部屋を出て行って一人になると、イリーナは再び思考を巡らせた。
(ホルヴァート伯爵か……きっと王弟派の貴族よね?)
気になるのは、ミランダの言った「何かを確かめてから」という部分だ。
考えられるのは魅了の力しかない────が、疑問も残る。
イリーナが魅了の力を使ったのは、ゼノンの実験を除けば、討伐の日と一昨日の二回だけだ。
(誰かに、見られてた?)
討伐の現場は火トカゲで混乱していたが、ゼノンは気づいた。
拘置塔では看守も遠ざけられていたが、イリーナたちが部屋に入ると、すぐにマーティ・ヴルジュが自白を始めた。
誰に何を聞かれたとしても、イリーナは知らぬ存ぜぬでやり過ごすつもりだが、もし見られていたとしたら言い逃れは出来ない。
嫌な予感にイリーナは青ざめた。
その時ふいに、トン、と柔らかいものが床に落ちたような音がした。
「だれ? 誰かいるの?」
真っ暗な部屋を見回してみるが、もちろん何も見えない。
恐ろしさに体を丸くしていると、ポスンと、お腹に何かが乗ってきた。
「ナァーオ」
甘えるような鳴き声。
こんな所に猫が居たのかと目を白黒させていると、斜めの窓から月の光が差し込んで、ビロードのような灰色猫の姿が浮かび上がった。
「あなた……まさか、リリィ? どこから入って来たの?」
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、しばらくイリーナのお腹に顔を擦りつけていたリリィだったが、突然トンと床に降り立った。
着地すると同時に、灰色猫の姿が陽炎のように揺らめいた。
青白い霞のようなものが少しずつ縦に伸びてゆき、やがて少年の姿になった。
「イリーナ、助けに来たよ」
灰色猫だった少年は、そう言ってニコッと笑った。半分透き通った儚げな姿だが、見た目は十代前半の少年。月光のような髪に白い顔、瞳は不思議な金色だった。
「あ、あなた、男の子だったの?」
一角銀猫には変身能力がある。だから、見た目の性別は関係ない。
頭ではわかっているはずなのに、リリィと名付けた猫が少年に変化したことで、イリーナの頭は混乱していた。
「魔獣の姿は借りてるだけ。ボクは精霊なんだ」
「せ、精霊? 精霊って、いなくなったんじゃ」
「まだいるよ。姿を変えてひっそりと暮らしてるんだ。それより、早く逃げようよ」
精霊のリリィ(?)は不貞腐れたように頬を膨らませながら、イリーナに手を差し伸べた。
「逃げるって言っても、どうやって? 例え縄が解けても、私は窓から出られないわよ」
お屋敷の最上階からでは、とても逃げ出せやしない。
そう思った刹那、イリーナはハッと息を呑んだ。
「ねぇリリィ? あなた、もしかして、私がここに居るって、ゼノン様に知らせに行けたりする? もしそうなら、お願いしたいことがあるの!」
イリーナは透き通った精霊の少年に、縋るような目を向けた。
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