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第21話 危険な試み
イリーナがパッと目を開けると、窓の外が明るくなっていた。
手足を縛られて窮屈な体勢で眠ったせいか、体のあちこちが痛かったけれど、思いのほかよく眠れたようだ。
(私ったら、この状況でよく眠れたよね)
イリーナは自分の図太さに苦笑したが、前の晩は隣で眠るゼノンに緊張してほとんど眠れなかったのだから、図太いというよりは、体が限界だったのかも知れない。
(でも、安心して眠れたのはリリィのお陰よね?)
さっきまでイリーナの隣で丸くなっていた灰色猫が、びよーんと伸びをする。
見知らぬ場所で一人ぼっちだったら、眠るどころか気持ちも休まらなかっただろう。
本当は精霊だという彼のことは、正直まだよくわからない。けれど、彼の存在がとても心強かったのは確かだ。
「おはようリリィ」
「おはようイリーナ」
よほど灰色猫の姿が気に入っているのか、彼はリリィという女の子っぽい名前も受け入れてくれている。
「朝になるまで閣下がここへ来なかったという事は、私のお願いをきいてくれたって事よね?」
「まぁ、そうなんじゃない? でも本当に大丈夫なの?」
「うん。大丈夫。誰が来ても、何もしゃべらないし、相手の情報は出来るだけ掴むつもりよ。それより、あのっ……リリィに訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「リリィが私を助けてくれるのは、その……私の魔力が、まだ効いているから、なの?」
昨夜、彼が姿を現した時からずっと気になっていたのだ。ただ、彼が魔獣ではなく、この国の祖とも言える精霊だと聞いてからは、答えを聞くのが怖かった。
「そっか、言うの忘れてたね。ボクたちに魔法は効かないんだ。ボクは三百年近く生きてるんだけど、イリーナの魅了眼は清々しいほど悪意がなくて素晴らしかったから、側にいたくて効いたフリしてたんだ」
「さ……さんびゃくねん?」
イリーナの顔から血の気が引いた。
少年姿だったし、普段のリリィは可愛らしい猫なので、ついつい年下扱いしてしまっていた。
「やだなぁ。これでも精霊の中じゃ若い方なんだ────」
ゴロゴロと寝そべっていたリリィが、パッと起き上がって寝台から飛び降りた。寝台の下に隠れたのだろう。「誰か来るよ」と下から声がした。
そのすぐ後にタタタタタッ、と小さな足音が聞こえ、イリーナが扉に視線を向けた瞬間、勢いよく扉が開いた。
「大変よ! 使用人がこちらに来るわ。お父様があなたを連れて来るように命じたの!」
扉を開けて飛び込んで来たのはミランダだった。急いで来たのだろう。ハアハアと息を弾ませている。
「連れて行くって……どこへ?」
「わからないわ。でも、朝から屋敷が騒がしいの。何かの準備をしているみたい。だから、あなたを外へ連れ出す訳じゃないとは思うのだけど……」
どうやらミランダは、異変を察知して知らせに来てくれたようだった。
「ありがとうございます。お陰で、心構えが出来ました」
逃げないと決めた時から覚悟はしていた。けれど、小さな扉から二人の屈強な男が現れた途端、イリーナの覚悟は粉々に砕かれた。
これから何が起こるのだろうか。
考えるだけで、恐ろしくて、体がぶるぶる震えだす。
男たちはミランダを一瞥しただけで、そのまま部屋の中に踏み込んで来た。
一人の男が無言のままイリーナを肩に担ぎ上げる。二人の男は不自然なほど、イリーナと目を合わせようとしなかった。
(私の目を、見るなって、命じられてる?)
両手両足を縛られたまま、イリーナは荷物のように運ばれた。
狭い階段を何度も折り返して階下へ降りる。
イリーナが連れて行かれたのは、お屋敷の中庭にある、ガラス張りの丸い温室だった。
「中へ入れろ」
温室の入口に立っていた紳士が、イリーナを担いだ男に指示を出す。
(あれが、ホルヴァート伯?)
彼の前を通り過ぎたのは一瞬のことで、瞳の色までは見えなかったが、ゆるいウェーブのある金髪はミランダと同じだった。
様々な木々と花々が生い茂る温室。その中心にある大きな柱の前に、イリーナはドサリと転がされた。
「手荒に扱った非礼は詫びよう、フェルラント団長夫人。名前は確か、イリーナだったか?」
イリーナの前に一人の男が進み出た。たぶん入口にいたホルヴァート伯だろう。顔を見たかったけれど、誰かに頭を押さえつけられていて、イリーナは彼の足しか見ることが出来なかった。
「きみの魔力を試したくて、ここへ来てもらった。これから、この温室の中に獰猛な犬を放つ。犬には昨夜から餌をやっていない。両手両足を縛られたきみに、もしも我々が思っているような力が無い場合、残念ながらきみの命はないだろう。可哀想だが、これも国の為だと思って諦めてくれ」
イリーナの視界に映っていた、黒光りする革靴がくるりと踵を返す。
ホルヴァート伯らしき男が部下を引き連れて去ってゆくと、いつの間にかイリーナの頭を押さえつけていた手も消えていた。
ホッとしたのも束の間、地面をける動物の足音と荒い息づかいが聞こえてきた。
「イリーナ、ほんとに大丈夫なの?」
草花の影から灰色猫が顔を出す。
正直、こういった展開は想像していなかった。暴力を振るわれても、何も喋らない覚悟はしていたけれど、相手の方が一枚も二枚も上だったようだ。
(これでは、嘘がつけないわ……)
自分の命を守る為には、嫌でも魅了の力を使わねばならない。
このやり方を考えた人は、とても頭がいいんだわ、とどこか他人事のようにイリーナは思った。
「ねぇ、イリーナ!」
リリィが心配そうな声を上げた時、草の茂みから大きな黒犬が飛び出した。
グルルルル
イリーナを見つけると、犬はその場で立ち止まった。牙の間から涎を垂れ流し、ウロウロと間合いを取りながら唸り声を上げている。
(ああ……)
イリーナの瞳から涙がこぼれ落ちた。
ホルヴァート伯たちは、きっとガラス張りの温室の外からイリーナを観察しているだろう。ここで魅了眼を使ってしまったら、彼らの思うつぼだ。
例えゼノンが助けに来てくれたとしても、魅了の力が使えると知られてしまえば、彼らはどんな手を使ってもイリーナを利用するだろう。
もしも、何も知らない父親や、イリーナに近しい者の命を盾に取られたら、自分は彼らの要求を拒むことが出来るだろうか。
(今ならば……無力な娘がひとり、犬の餌食になるだけで済む)
魅了眼の持ち主さえいなくなれば、悪用される心配も無い。保護する必要が無くなれば、いずれゼノンも相応しい人と結婚出来るだろう。
それが一番良いことだとわかっているのに、心の奥底にはそれを否定したい気持ちもあった。
(……ゼノン様)
間合いを測っていた犬が、狙いを定めたように地面を蹴った。
きっと犬は躊躇なく、あの鋭い牙で、イリーナの喉元に喰らいつくのだろう。
「リリィ、お願い! 何もしないで!」
そう叫ぶなり、イリーナは覚悟を決めて目を閉じた────が、いつまで経っても痛みは襲って来なかった。
キャン キャン キャウーン
目を開けると、後ろ脚を引きずりながら犬がどこかへ逃げてゆく。
一瞬、ゼノンが助けに来たのではないかと思ったが、そうではなかった。見知らぬ青年が、細いナイフを弄びながら近づいて来る。
彼は横たわるイリーナの傍まで歩み寄ると、その場に膝をついた。
「だめですよ、ホルヴァート伯爵さま。この子、死ぬつもりでしたよ。もしも貴重な力を持ってたら、取り返しがつかないですよ!」
部下と共に温室に駆け込んで来たホルヴァート伯爵を肩越しに振り返り、青年は気の抜けた声でそう言った。
(この人、誰だろう……ホルヴァート伯に逆らえるなんて)
一難去ってまた一難。
イリーナは青ざめながら、事の成り行きを見守るしかなかった。
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