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第3話 結婚相手は騎士団長閣下
夕闇の中で見る神殿は、不気味としか言いようがなかった。
王宮での仕事を終えたイリーナは、城下にある石造りの神殿の前に立ち、重厚で大きな木の扉をひとり見上げていた。
およそ婚姻の儀式に相応しい時間帯ではないが、イリーナは、これからここで結婚するらしい。
『────すまないイリーナ。急なことだが、おまえは明日、結婚することになった。先方がうちの借金を払ってくれたこともあるが、結婚すればおまえはもう働かなくていい。勝手に決めたのは悪かったが、父さんはもう、おまえに危険な仕事を続けて欲しくないんだ。どうか聞き分けておくれ』
父に頭を下げられてそう言われてしまえば、頷くしかなかった。
『先方はお急ぎらしくてな、明日の仕事終わりに神殿に来て欲しいと申しつけられた。王宮のお仕着せのままで良いそうだ』
昨夜は、話を切り出した父もひどく慌てていたし、イリーナも気が動転していた。急かされるまま身の回りの物を鞄に詰め込み、気を失うように寝てしまった。
結局、イリーナは相手が誰なのか確認せぬまま仕事へ行き、悶々としたまま今日一日を過ごしたのだった。
(……どうしよう)
なかなか一歩が踏み出せない。
結婚の夢を捨てていたとはいえ、イリーナも十八歳の乙女だ。いつか、自分の秘密を共有してくれる素敵な男性が現れるかもしれないと、心のどこかで夢見ていた。
けれど、現実はそう甘くはない。
昨日の今日で結婚。しかも、神殿に行くまで相手が誰かもわからない。ついでに言えば花嫁衣装もなしだ。
うっすらと滲んできた涙で、目の前の神殿がぼやけて見える。
父の借金をまるごと払ってくれたというのだから、相手はきっと貴族だろう。
イリーナの父は王宮と取引のある商人で、かつてグランウェル王国が干ばつによる飢饉で苦しんだ折に、隣国から穀物を緊急輸入した功績から、一代限りの貴族────男爵位を与えられたが、母を亡くしてからはやる気をなくし、借金を作るまでに落ちぶれてしまった。
(生粋の貴族に、お父さんが逆らえるわけがない。相手がかなりのお年寄りでも我慢しなくちゃ)
そう自分に言い聞かせて、イリーナは神殿の扉に手をかけた。
ギィィィィィ
分厚い木の扉が軋んだ音を立てて開く。
震える足を上げて、薄暗い礼拝堂に一歩踏み込んだ途端。
「遅い! 今までどこをほっつき歩いていた?」
轟くような鋭い声に、イリーナは飛び上がった。
叱責されたからではない。聞こえて来た声が、あまりにも上司の声に似ていたからだ。
騎士たちを厳しく指導し、自分たち救護班にもしっかりと目を配る。この声を聞くと、イリーナは自然と背筋を正したくなる。
「はっ、はい!」
思わず踵をそろえ、イリーナは返事をした。
たくさんの蝋燭が揺らめく祭壇の前から、薄暗い中央通路を大柄な男がこちらに向かって歩いて来る。
(まさか……そんな、バカな、こと、な、い)
イリーナは目を瞬いて錯覚を振り払おうとした。だが、近づいて来る男はどこからどう見ても、白鷲騎士団長のゼノン・フェルラントにしか見えなかった。
カツンと靴音を響かせて、よく鍛えられた大柄な黒い影がイリーナ前で立ち止まる。
扉の両脇に置かれた燭台の灯りが、淡い金髪の奥に煌めく青い瞳を映し出す。
「ふぇ(フェルラント閣下が)……どっ(どうしてここに)?」
狼の前に飛び出してしまった子兎のように身を縮めていると、いきなりグイッと腕をつかまれた。
「さっさと婚姻の儀式を済ませるぞ!」
「へ?」
ゼノンに腕を引っ張られて、あっという間に祭壇の前に連行される。横並びに祭壇の前に立つと、神官が呪文のように何事かつぶやきはじめた。
イリーナの頭は真っ白だった。
何も考えることが出来ないまま、上司にペンを渡され書類に署名した。
こうして婚姻の儀式はつつがなく終わった。
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