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第9話 魔獣と仲良し
「リリィ、おいで」
毎朝、庭でリリィと遊ぶのがイリーナの日課になった。
リリィと名付けられた一角銀猫が、灰色猫の姿のままイリーナの腕に飛び込んでくる。
艶のある灰色の猫を抱き上げて、ビロードのような毛並みを心ゆくまで撫でると、猫の癒し効果なのか少し心が楽になる。
肩の力が抜け、張りつめていた気持ちも緩んで、ようやくイリーナは、自分で思っていたよりもずっと心細かったのだと気づくことが出来た。
伯爵小邸での生活にも少しずつ慣れて、ほんの少しだけ前髪に分け目をつけられるようになったのもリリィのおかげだろう。
猫扱いされる一角銀猫には迷惑かも知れないが、イリーナにとってリリィの存在はかけがえのないものになっていた。
「イリーナ、おはよう。一角銀猫はまだ猫のままか?」
ゼノンが庭の芝生を大股で歩いて来る。
イリーナはリリィを抱いたままゼノンに会釈した。
「おはようございますゼノン様。まだ猫のままです」
この三日間、ゼノンは毎日、イリーナに魅了の魔法をかけさせた。
初日は魔獣の一角銀猫。二日目と三日目は適当な魔獣が見つからなかったのだろう。気性の荒い大型犬や暴れ馬といった動物だった。
大型犬も暴れ馬もイリーナの魅了眼で大人しくなったが、どちらも効果が続くのは一日ほどだった。
ただ不思議なことに、一角銀猫だけは三日経った今でも猫の姿のままなのだ。
「魔獣の方が、魅了の効果があるということか?」
ゼノンは独り言をつぶやきながら首をひねり、薄い唇を歪ませている。
考え事をしながら無防備にリリィに手を伸ばした途端、シャッと猫パンチで弾かれた。
(閣下が! 閣下が、猫パンチされてる!)
イリーナは目を丸くしてゼノンを見上げ、ついフフッと笑ってしまった。
すると、ゼノンの大きな手がイリーナの髪をクシャッと乱し、ついでに頬をふわりと撫でた。
「ようやく笑ってくれたな。良い笑顔だ」
そう言うゼノンも、目を細めて優しい笑みを浮かべている。
(うっ)
ゼノンの顔を直視できなくて、イリーナは灰色の毛に顔を埋めた。
(これ以上、優しくしないでください)
ゼノンを好きになっても辛くなるだけだとわかっているのに、笑顔を向けられる度に心が持って行かれそうになる。
この結婚はイリーナを守るためのもので、ゼノンにとっては仕事の一つに過ぎない。その証拠に、夫婦の寝室にゼノンが現れたことは一度もない。
「シャッ! シャーッ!」
リリィが手足をバタつかせるので、イリーナは仕方なく顔を上げた。
「イリーナ、こいつを大人しくさせてくれないか?」
困り顔のゼノンに、リリィがまたもや猫パンチを繰り出している。
「リリィ、大人しくして。ゼノン様を威嚇しちゃダメよ」
イリーナがそう言っても、リリィは猫パンチを止めようとしない。
「……え?」
イリーナとゼノンは顔を見合わせた。
ダイニングルームでマーゴの淹れてくれたお茶を飲みながら、イリーナは窓の外を眺めた。
リリィは再び鉄の檻に入れられてしまい、庭の白大理石のテーブルの上にいる。魅了眼の効力が切れていると危険だからと、ゼノンが檻に入れてしまったのだ。
「あの……どういう事なのでしょうか?」
イリーナは、向かいの席でお茶を飲むゼノンを見上げた。
魅了眼が解けたら一角銀猫の姿に戻るだろうと、イリーナもゼノンも思い込んでいた。
「わからないが、魅了が解けても猫のままだったのは、一角銀猫の気まぐれとしか思えないな」
「気まぐれ、ですか?」
確かにそうかも知れない。一角銀猫は魔獣だが、猫に似た姿と同様に、気まぐれなところがあるという。
「もう、檻から出してはダメですか?」
「一角銀猫が人を襲うことはないが、魔獣は肉食だからな」
「そう、ですよね……」
「猫が欲しいなら、ゴフリーに頼んで探して来てもらおうか?」
「いえ、大丈夫です」
イリーナは慌てて首を振った。
ゼノンの言葉は嬉しかったが、イリーナが愛しているのは魔獣のリリィで、ほかの猫をリリィの代わりに飼いたいとは思わなかった。
一週間が過ぎても、一角銀猫は灰色猫のままだった。
ゼノンが片付けさせたのか、その日を境にリリィの檻は庭から消えてしまった。
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