62人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話 危険手当のあるお仕事
「うわぁっ、火トカゲだぁ!」
「こっちへ来るぞ!」
急に、天幕の外が騒がしくなった。
負傷者を介抱をしていた救護助手のイリーナは、緩く編んだ亜麻色の髪を揺らすほどの勢いで、ビクッと肩を震わせた。
ここは〈魔樹海〉。魔獣の棲む魔の森だ。
大陸の中央に位置するグランウェル王国は、北を高山、南を〈魔樹海〉に挟まれているため、異国から侵攻されたことがない。
その代わり、人や家畜を襲う魔獣と戦って来た歴史は長い。
古来から異能を持つ者を取り立ててきたグランウェル王国は、数年前、選りすぐりの魔法騎士を集め、羽ばたく白鷲の旗を掲げた〈白鷲騎士団〉を設立した。
彼らの仕事は魔獣から王国を守る事であり、〈魔樹海〉では定期的な魔獣討伐が行われていた。
(魔獣に……手こずってるのかな?)
イリーナはビクビクしながら、長い前髪越しに天幕の入口に目を向けた。
その時、天幕の入口にかけられた垂れ幕がバサリと乱暴に跳ね上がり、小隊長クラスの若い魔法騎士が怖い顔をぬっとのぞかせた。
「救護班、急いで退避しろ! グズグズするな!」
鋭い声でそう言うと、若い魔法騎士はすぐに垂れ幕の向こうに姿を消してしまう。
事態はかなり切迫しているらしい。
「アレク先生、ここは一旦引きましょう!」
同僚の救護助手ミレシュが、白いローブを着た黒髪の青年治療師をうながしている。
魔獣討伐で一番大切なのは、治療師の安全確保だ。
数の少ない貴重な治療師に怪我をされては、騎士団が全滅してしまう。
例え治療中の負傷者を捨て置いても、治療師を避難させるのが救護助手の仕事であり、本当に最悪の場合、体を張って治療師の盾になるのも、イリーナたちのような魔力のない救護助手の役割だった。
「イリーナも、逃げるよ!」
青白い顔でアレクが急にこちらを向いたので、イリーナは慌てて目を逸らしながら「はい」と頷いた。
イリーナは人と目を合わせるのが苦手だ。長い前髪で目を覆っていても、まともに相手の顔を見ることが出来ない。
幸いこの救護班の人たち────治療師のアレクと助手のミレシュは、そんなイリーナのことを温かく受け入れてくれている。
少々危険な仕事ではあるが、その分お給金も良いし、イリーナにとってはとても良い職場だった。
「ほら、先生! 行きますよ!」
ミレシュが赤毛の三つ編みを弾ませながら、アレクを天幕から追い立てる。
二人の後について天幕の外へ出たイリーナは、叫び声のする森の奥へと目を向けた。
ズシンズシン、と地響きのような足音が近づいて来る。
木々の枝を燃やしそうな勢いで現れたのは、人間の二倍はある巨大な火トカゲだった。
(あれが、火トカゲ?)
炎を纏う魔獣に目を奪われて、イリーナは天幕の前に立ち尽くした。
魔獣を倒すには、その魔獣と逆の力を持つ魔法騎士が必要だ。目の前にいる火トカゲならば、水や土の力を持つ騎士だ。
(……でも、私は違う)
天幕の前に立ったまま、イリーナは火トカゲを見据えた。
火トカゲは後ろ足で立ち上がり、炎に包まれた長い尾を振り回して、騎士たちを蹴散らしている。
火トカゲの速い攻撃に魔法騎士たちの攻撃が追いつけないのは、魔力を練る時間が圧倒的に足りないからだ。
燃える尾で攻撃された騎士たちの隊服は焦げ、素肌は炎で焼けただれている。
(ちょっとだけ……ちょっとだけなら良いよね? お母さん……)
いつもお世話になっている騎士たちが、重い火傷を負って地面に伏している。
いくらイリーナが魔力なしを装っているとしても、彼らを捨て置いて、自分たちだけ逃げ出すのは心苦しかった。
(ほんのちょっとだけ、手を貸すだけだから……)
立ち止まったまま動かないイリーナに、火トカゲが炎のように朱い目を向けた。女子供を好んで喰らう魔獣が、イリーナに気づかぬ訳がない。
森を渡る風が、火トカゲの炎に焙られて熱風に変わる。
イリーナが前髪を搔き上げると、救護助手の白い帽子が風に乗って落ちてゆく。
亜麻色の三つ編みからこぼれたおくれ髪が、ふわりと舞い上がる。
露わになったすみれ色の瞳が、火トカゲの赤い瞳を捉えた瞬間、金色へと変化した。
(────お願い、そこで、止まって!)
グガァァァァァァ
咆哮を上げた火トカゲが、突然足を止めた。
その隙を見逃す魔法騎士たちではない。
周りを囲んだ騎士たちが、四方から魔力をぶつける。
炎を失った火トカゲが大地を響かせながら倒された頃には、イリーナは森の外へと逃げ去っていた。
────だから、イリーナは気づかなかった。
火トカゲを倒した魔法騎士がひとり、イリーナの後ろ姿を見送っていたことを。
最初のコメントを投稿しよう!