5人が本棚に入れています
本棚に追加
「九重くん、人間を消すにはどうしたらいいと思う?」
「急に犯罪の相談事はやめてくれ」
なんでもない、なにも考えず口から垂れ流したような口ぶりで話しかけのに、眉を顰めて返されてしまった。
「悪いけど今から小声で喋ってくれない?」
「理由は?」
「だって誰かに聞かれたくないし」
「ならそもそも聞かれたくないことを教室で話さない方がいい」
呆れつつも隣に座る彼は声の大きさを抑えてくれた。私たちの席は教室中の生徒を見渡せる1番後ろ。例え犯罪だろうが恋愛だろうが、どんな相談でもこの位置で小声なら問題ないはずだ。
自習中の課題はもちろん出されている。プリントに印刷されている英文を全文和訳して提出しなくてはならない。しかしその英文はどうやらとある作品の1部を抜粋したものらしく、ほとんどの生徒はスマートフォンで調べたものをそのまま写している。わざわざ電子辞書で単語を調べながら翻訳しているのはこの教室の中で私と今話している九重聡真ぐらいだろう。
私たちは真面目だ。自分自身のことをそう表すなんて信憑性に欠けるだろう。ただ少なくとも私は特にこれといった特徴の無い人間だ。
小学校に入学してから高校に入学した今も通知表には委員会や部活に真面目に取り組んでいる、教室では友だちと楽しそうに過ごしているなど当たり障りない言葉が並んでいる。
本来の真面目という言葉の意味とはかけ離れた人間なのかもしれない。けれどもこれといって特徴の無い、形容すべき言葉が出てこない私にはそれしか纏えなかった。
対して九重聡真はどうだろう。席替えで偶然隣同士になったときに初めて彼という存在をしっかり認識した気がする。
偏差値が高くない高校でお世辞にも素行の良い生徒ばかりとは言えない高校だ。彼も私もそんな個性溢れるクラスメイトに埋もれていたために、隣の席に座ってようやく互いの存在を把握した。
「でも周りがうるさいし小声なら大丈夫」
「……それもそうか」
「そうそう。それに自習のプリント簡単だし早く終わらせて相談に乗ってくれよ九重くん」
「まあ今日くらいいいよ佐藤紬さん」
まるで舞台の上で演技をする役者のような口調で話す。私は友人らとふざけてするので慣れているが、彼は慣れていないらしい。
だから私は不思議に思っていた。なぜ頭のいい真面目な彼がこの高校に通っているのか。
「ありがとう九重くん。ついでに聞きたいんだけど、どうしてこの高校に通うことを決めたの?」
「今更だな。佐藤さんこそどうして?」
季節は梅雨。確かにこんな話題は最初のうちに消化してしまうものだろう。
「確実に合格できて内申点を稼ぎやすいからかな。そっちは?」
「奇遇だな。僕も同じ」
自分自身とそっくりな人間が世界に3人いると言われている。それなら自分と同じ性格をした人間も世界中を探せば3人も見つかるのだろうか。
九重聡真という男は本当に私と似ている。
例えば私は根明で教室の中心で騒いでいる集団、いわゆる『陽キャ』という存在が苦手だ。自分という道端の石ころみたいな、目立つことが苦手な人間が煌びやかなクラスメイトに話しかけられたとき、他の人間の注目が集まっている気がして私は緊張してうまく話せない。
九重くんも急にサッカー部に所属している男子生徒に話しかけられていたことがあった。そのとき普段穏やかな表情をして話す彼が石のように固くなった顔をしていたのを覚えている。
「おい笑わすなよ日向!!」
「悪い悪い! けどお前が授業中に早弁してるのが悪いんだろ!」
とはいえ私と九重聡真は似ているが全く同じなわけではない。私はこの高校に決めた理由はさっき言ったことだけではなかった。
私は弁当を食べていた男子を笑わせた日向駿という男に恋をしている。高校受験を控えたとき、彼とまた3年間同じ学舎で学べたらというスプーン1杯分の下心があったのだ。
***
失明するほどの恋だった。
「その曲いいよな! オレも好き」
人の目も気にせず自分の席で鼻歌を歌っていた。その歌は甘酸っぱい男女の恋模様を綴った歌だったと思う。クラスの人気者に鼻歌を聞かれて目は泳ぎ、顔はりんごのように赤くなるくらい羞恥心に支配された。
「そ、そうなんだ……」
「佐藤は? なんの曲が好き?」
「えっと、最近出た新曲かな……」
「わかる! あれいいよな!」
太陽のような笑顔とはきっと彼の笑った顔のことを言うのだと思う。網膜が焼けると錯覚するほど眩しい笑顔に目を奪われた。
この日から私の中で日向駿という存在は健やかに成長する樹木のように日に日に大きくなっていった。
「やばい! 教科書忘れた!」
「あーあ。次毒島の授業だから借りられないし怒られるの確定じゃん」
「あークソ! あーあ。今すぐ隕石落ちてこないかなー」
教室中のクラスメイトの話し声の中で彼の音だけは不思議とよく聞こえた。決して静かではない静寂の中で彼の口癖は真っ直ぐ耳に入ってくる。私はこの日常が大好きだった。
その日は午後から雨が降っていた。天気予報を確認する癖など付いておらず、私は傘を持ってきていない。
「じゃーな!」
「またな!」
こんな雨の日でも日向駿は元気よく教室を飛び出していた。
「駿! 傘忘れてるぞ!」
「わりぃわりぃ!」
数秒後彼の友人のひと声で戻ってきた。私も雨が酷くなる前に早く帰ろうと思う。誓って日向と同じタイミングで教室を出て、少しでも長く彼の姿を目に焼き付けようなどと邪な気持ちがあったわけではない。
「はあ……」
靴を履いて外に出てみると思っていたより雨が降っていた。家は学校からそう遠くはないが、このまま帰れば全身が濡れて制服が異臭を放つかもしれない。ここは人の目を気にせず鞄を頭の上で持って雨を避けるしかない。それでも気休め程度だろう。
「佐藤? もしかして傘忘れた?」
頭上に両手で鞄を支えて雨の中、一歩を踏み出そうとした時に声をかけられてしまった。最悪だ。
私は齢15歳にしてすでに自分が他人からどういうレッテルを貼られているのか理解している。教室では友人と話す時以外常に下を向き、肩を縮こませ日々存在感を消していた。オブラートに包むのなら私は大人しい、お淑やかな人だと認知されているだろう。
それがよりにもよってこんな姿をこの男に見られてしまった。顔を赤くして間抜けなまま固まった私は、きっと彼の目には奇怪な蝋人形に見えただろう。これほどまでに透明人間になりたいと思ったことはない。
「あ、うん……」
「ならこれ貸してやるよ」
今もまだ降り続ける雨。日向駿の家がどこにあるのか私は知らない。家までの道は長くないのだろうか。
「で、でも日向は? 他に傘はあるの?」
「無いけど、オレの家走ってすぐだから平気! はいコレ」
片手を掴まれ、彼の持っていた黒い傘を握らされる。お互いの皮膚と皮膚が触れてニヤけてしまいそうになるのを必死に抑えた。
このまま余韻に浸っている場合ではない。なぜなら彼が背を向けて走り去ってしまう。
「……待って! 傘ありがとう!」
「おう! またな!」
天気の悪さも感じさせない笑顔で振り返ってくれた。あの顔はずるい。えくぼがチャームポイントな笑顔。こんなに心が乱されて、自分自身が心臓なのだと錯覚するくらい鼓動がはっきりと脈打つなんて初めてだった。
結局私は無言で手を振り返すことしかできなかった。
それからというものの友人の協力もありつつ日向駿との思い出は少しずつ増え、携帯を所持してからは彼との思い出をほんの少し写真に収めることができた。放課後のチャイム、雨の日、なんでもない日の教室という無彩色の日常に色が滲み出す。今まで笑顔が絶えない日々だった。
夢のような時間だと思っていたから、終わりが来るのも必然だったのだろうか。
***
「自分の記憶から特定の相手を消したい?」
「うん」
「なんだ。一緒に死体を埋めに行く相談じゃなかったのか」
「流石にしないよそんなこと」
「なら人間を消すなんて紛らわしいことを言うのはやめてくれ」
「それはごめん」
「……相手のこと嫌いなのか?」
やや窺うそぶりを九重聡真は見せた。
「……嫌いになれたら良かったんだけど」
「…………好きなのか」
「……うん」
簡単に嫌いになれたらどんなに良かっただろう。俯いた先には解き終わったプリント。私たちの周囲に漂う重い空気。教室中で待ちわびていたチャイムが鳴る。
「……その人の写真とかある?」
「あるけど……。九重くんには見せないよ」
先に2人の間に流れていた沈黙を破ったのは彼だった。
「見せなくていい。前に聞いたことがあるんだ。写真とか、その人の思い出の物があるとそれを見る度その人のことを思い出すんだって。だから忘れたいならそういうのを捨てればいいと思う」
きっと今の私の顔は、隣の彼が気遣って話すほど醜く歪んでいるのだろう。早く提出しなければいけないプリントを教卓に持っていかなくてはいけない。そう思うのに体が椅子に張り付いたまま動けなかった。
「一緒に出しとく」
「……っ、ありがと」
涙が出るほど純粋な人間ではない。その証拠に私の瞳は今も乾き切ったままだ。ただ、今は取り繕えるほど余裕は無かった。
プリントを代わりに持っていってくれたこと、その時に九重聡真の好物である個包装の煮干しを机にわざわざ置いてくれた気遣いが今は苦しい。好意に甘えて今は貪り食おうと思う。
「煮干しもありがとう」
「別に。大したことじゃない」
嘘だ。以前煮干しが如何に好きなのか語っていたことをまだ覚えている。小学生の頃、食べ過ぎて夕飯が食べられず親に怒られて以降、食べる量を制限されていたのだと少し照れくさそうに話してくれた。
不器用な人だと思う。普段は沁みるような温かさも今は痛い。
「……帰りは雨だな」
雨は嫌い。それでも、ほんの少しだけ喜んでしまう。視界の端に感情の読めない顔をした九重くんを入れながら、ついつい日向を探してしまう。そんな私はまだ、彼を消せそうにない。
***
初めてその表情を見た時はまだ日向の想い人なんて知らなかった。
「あ……」
夕陽が射す教室で、偶然にも1人でいた日向駿に声をかけようと一歩踏み出す。けれども話しかけることはできなかった。なぜなら呼吸を忘れるほど衝撃的で、私なんかが邪魔をしてはいけない状況。それでいてすぐにこの場を立ち去りたい衝動に駆られ、そのまま足音を立てずに今来た道を戻り始めた。
見たことない横顔だった。普段のあの笑顔を真昼に咲く太陽だと形容するとしよう。真剣な眼差しで窓の外を見ている様子はいつもの快活さを感じられない、月明かりを彷彿とした表情だ。
「聞いたー? 日向の好きな人」
「知ってるよ。隣のクラスの白鳥菫さんでしょー? バレバレだよねー」
白鳥菫。真っ白い肌にパッチリとした二重。手入れが行き届いたサラサラな黒髪ロング。頭も良く、おまけに所属しているテニス部では好成績を残しているらしい。
絵に描いたような人だと思わず鼻で笑ってしまう。こうでもしないとやってられない。彼女らの会話を背に足早に靴箱へ向かった。
日向駿が誰かのことを好きだなんてわかっていた。あの横顔の、一際惹きつけられた瞳を私は知っている。だってあれは生きてきた人生で何度か見てきた目。なにより私自身が彼に向けている瞳にそっくりだった。
***
「日向ずりぃぞ! 俺も傘に入れてけよ!」
「やだね! 今日は約束があるからオレは先に帰る!」
「日向はいっつも先に帰ってるだろ!」
心地の良い声も今は私の心を掻き毟る音と変わらない。憂鬱だ。わかりやすい周りの空気も、また傘を忘れた事実が全て憎らしい。
「佐藤さん、傘は……」
「……忘れたよ! 酷くなる前に帰るね」
挨拶も簡単に済ませ急いで教室を出る。九重くんには悪いことをしたと思う。明日彼の好きな煮干しでも買ってこようか。
「あーあ」
大人しく教室で時間を潰せば良かった。外に出て最初に見たのは2つの傘。1つは可愛らしい赤い傘。遠くにいても、たくさんの傘に囲まれてもすぐに見つけられるだろう。それだけだったらなんの問題も無かった。
赤い傘の隣には黒い傘。なんの特徴も無い傘だが、そこから覗く顔は飽きるほど見た顔だ。
好いた男の自分以外に向けられた浮かれた顔なんて見たくなかった。視界がぼやける。雨の音がうるさい中、より孤独を実感する。
「……ぁ」
すると突然日向がこちらを振り返った。
「またな!」
手を振らないで。その笑顔を向けないで。
なんて呪詛は無理矢理胃袋に流し込んで手を振りかえした。急添えの笑顔は不審に思われていないだろうか。
じっとしていられなくて彼らとは反対方向へ走り出す。もちろん鞄の位置は頭の上だ。
ずっと息が苦しい。あんなに彼の眩しい笑顔が好きだったのに、それは不特定多数に向けられた顔だなんて知りたくなかった。
「うっ、ふっ……」
雨が降って良かった。不細工になるまで泣いても誤魔化せるから。届かない、どうすることもできない無力感でうまく呼吸ができない。その場で蹲った。
「…………ぇ」
数秒だろうか、それとも数分だろうか。ようやく自分自身に雨水が降りかかっていないことに気づいた。上を向けば黒い傘。少しだけ胸が軽くなる。まさかと思い後ろを振り返った。
「佐藤さん」
きっと相手に失礼なくらい落胆した顔をしていただろう。顔はまあまあな、けれども爽やかな笑顔の持ち主ではなく、眼鏡をかけた冴えない男だった。
「……九重くん。なんで……」
「佐藤さんを追いかけてきたんだ。途中まで一緒に帰ろうと思って……」
目の前の男は私がわかりやすく気分が下がったことに気づいているはずなのに話を続けている。ついにはタオルまで手渡してくれた。
「ありがとう」
「…………あの2人は付き合うんだろうな」
不意に刃物で刺されたかのように驚いた。タオルで体を軽く拭きながらそっと彼を盗み見る。彼の見つめる先は恐らくあの2人だろう。やっぱり九重くんの考えていることはわからない。能面のような張り付いた顔が少し怖いと思った。
「……だろうね」
「佐藤さんは日向駿のことが好きだったんだね」
驚いて勢いよく彼の方を見た。目が合うと彼は曖昧に笑う。悲しそうな、どこか疲れて諦めたような顔に見えた。
「どうして……」
「見てたらわかる。佐藤さんはわかりやすい」
「初めて言われたよ。友達にだってバレなかった」
「それは……」
気まずいのだろうか。視線は逸らすが傘は手に持ったまま、私たちを雨から守ってくれている。相変わらず九重聡真はいい人だ。
「まあいいや。……九重くんは優しいね」
「それは違うよ佐藤さん」
「そう? 英語のプリントを提出してくれたでしょ? それに好物の煮干しを分けてくれたりどうでもいい相談にも乗ってくれるし、今だって傘に入れてくれてるじゃん」
「……佐藤さんって鈍いんだな」
「え……?」
ぐっと彼の顔が近付く。元々狭い傘の中でお互いの距離は近かった。だから今本当に目と鼻の先に彼の顔がある。近くで見れば九重聡真の顔立ちは意外と整っていた。
目が合う。そうだ。その瞳だ。やっぱり私はその目を知っている。
「ずっと好きだったんだ。佐藤さんのこと」
「なんで……」
「なにか特別な理由が必要だと思うか? 僕は喋っている時によく笑う佐藤さんを、彼のことを見ていた佐藤さんを好きになったんだ」
「あ……」
「佐藤さんはずっと彼のことを見ていたから気づかなかっただろ? 叶わない恋の辛さは、僕もわかってるつもりだ」
「……そっか」
彼の声がいつもよりクリアに耳に入ったのはきっと傘の中にいるからだ。お互い黙ったままだと雨がアスファルトに叩き込む音がよく聞こえる。なんとなく相手の顔を見れなくて下を向く。
私たちの恋はきっと向日葵のようだと思う。相手を見上げるばかりでその場から動けない、一歩先の関係に進めない、地に根を張ったままの存在。そして相手にとって有象無象のひとつでしかない。
私の向日葵はたった今枯れてしまった。私に残っているのはささやかな楽しい思い出と濁りきった呪いのような負の感情だけだ。
「……佐藤さん?」
おもむろに携帯を取り出した。写真フォルダを開く。
「九重くん。写真を消したら、その人のことを思い出すことはなくなるんだよね?」
「ああ」
ゆっくり噛み締めながら丁寧に、日向駿が確かに存在した写真を消していく。指は少し震えている。
これでいい。彼に直接言いたいことが山ほどある。
あなたも好きなバンドの曲を聴くと胸を締め付けられてしまうこと、顔だけはそこそこまあまあで意外と大したことはないこと、タイミングよく私の好きな笑顔を向けてくること、適当に見えてたまに優しいこと、あの人のことを見つめていた横顔でさえ好きだったこと、それから、私があなたのことを好きなこと。
思い出と言いたいことを頭に浮かべながら消していく。写真が消えていくと同時に少し心が軽くなっているような気がする。
全て写真は消えた。少しの爽快感とやっぱり後悔が後から着いてくる。
今はこれでいい。まだ完全に忘れられなくても、これもいつかきっと砂のように手からこぼれ落ちて忘れてしまうだろう。
「あーあ。……佐藤さん、帰りどこかに寄らないか? 僕が奢るから」
「……いいよ」
九重聡真は告白の返事はいらないみたいだ。きっと聞かなくても返事はわかっているからだろう。それでも改めて告白の返事はしようと思う。彼は誠実だ。私もそれに応えたい。
私は日向駿を私の中から消したかった。彼はどうだろう。
雨の中に2人。傘は1つ。不思議とさっきまで嫌いだった雨が悪くないと思えた。私たちは近くのファミレスを目指して歩き始める。雨はまだ止まない。
最初のコメントを投稿しよう!