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6.氷の中息づく、花
……本当はずっと思っていたのだ。彼の話を聞いたときからずっと。
彼はまるで水槽の中氷漬けにされた花のようだと。
花はでも、その環境を決して不幸だとは思っていない。誰かのためにそこにあること。それが彼自身の幸福であると心から信じて存在し続けている。
それが過ちだと栄には言い切れない。本心から彼がそこを望むのならば、それは彼の幸福であり、他人の自分がとやかく言うことではないと思うからだ。
でも、誰かの思いを叶えられなかったからと自分を責め、氷の中窒息していく。それは決して正しいことじゃない。
歯ばかりに心を移してきた自分に人の心など語れるものではない。ああ、彼の言う通り。まったくその通りだ。でも栄は願わずにいられなかった。
彼が彼の心のままに花弁を綻ばせてくれるようにと、願わずにはいられなかった。
けれどおそらく郁人にとっては栄の言葉は迷惑なものでしかなかったのだろう。それ以来図書館に郁人が姿を現すことはなく、また栄の医院に受診することもまたないまま、あっという間に年は明け、一月が過ぎ、二月となった。
一本だけ植えられた河津桜の木を見上げ、栄は嘆息する。
ちらほらと花が咲き始め、淡青な空に淡紅色が泳いで見える。とはいえ、まだ固く閉ざされたつぼみもある。
共通テストは終わり、残りは大学別の個別学力試験のはずだ。彼にとって今はどんな状態なのだろう。やはり閉ざされた氷の中でひっそりと息づく花のままなのだろうか。
風がさわりと頬を撫でる。いまだ冷たい冬を宿し続ける風を受けながら、それでも空に向かって桜は手を伸ばし続けている。
もう会うこともないかもしれない。そんな思いを抱きつつ、彼と最後に言葉を交わしたこの場所で日々綻んでいく花弁を眺めることが栄にとっての日課となっていた。
日一日、桜は姿を変えていく。
一輪、また一輪、花は開いていく。ゆっくりゆっくりと頭上の水色に淡紅色が増えていく。
そうして早咲きの桜の下、佇み続けたある日。
むせるほどの花々が桜の木を覆いつくしたそこに、栄は見た。
彼が佇んでいるのを。
まだうすら寒いため彼はコートを羽織ってはいたが、いつもトレードマークのように巻かれていたマフラーはなく、そのことに時の流れを感じたのも束の間。
ふい、と彼が振り向いた。
そこに立ち尽くす栄を彼は静かな目で見返してから、ふっと笑った。
「先生さ、しょっちゅうここでひとり花見してただろ」
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