マダム

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   キスマークが気になって、社員ミーティングは上の空だった。昨日、真斗はしつこく相手を聞いたが、莉斗は答えてくれなかった。  社長の馬渕(まぶち)が真斗の肩をポンと叩く。馬渕は格闘家上がりの三十歳で、二度の離婚歴がある。原因は馬渕のDVだ。 「昨日、このバカが何を血迷ったのか、お客様に殴る蹴るの暴行を加えた。いいか? テメエら、俺らの商売は信用第一だ。点検しかり、浄水器設置しかり、お客様が納得しないままやるのは論外だ。作業着のここ、なんて書いてある? 駿府(すんぷ)だなあ? そうだ、俺らは街の名前背負ってんだよ。『水のトラブル、静岡』って検索したら、一番上にヒットするんだよ。そんな会社が客を殴るとはどういうことだ? 今日、警察から連絡が来ちまったよ。相手方が相談に来たんだと。俺は会社を畳まなきゃいけねえかと思って涙が出たよ。でもまあ、そこはさすが静岡県警だ。ロレックス一本で話をつけてやるってよ」  馬渕が唇の端を引き上げ、社員全員が空気を読んでハハハッ、と笑った。駅ビルの五階が「駿府ビルサービス」の事務所で、馬渕以外は全員青色の作業着を着用している。みな元不良で頭が悪い。この会社は客の懐を見極めて浄水器を売りつける詐欺商売で成り立っている。点検もインチキだ。 「テメエらっ、何ヘラヘラ笑ってやがるっ! 会社の金が飛ぶんだぞっ! それともなんだあ? 会社の金だから別にいいとでも思ってんのかっ! 甘ったれてんじゃねえぞっ! 俺はなァ、親の財布からこっそり金を抜くような野郎が大嫌いなんだよ。金が欲しけりゃカツアゲすりゃあ良いじゃねえか。どうして家族に迷惑かけんだ。テメエらにとって会社はファミリーじゃねえのかっ!」  馬渕が顔を赤くして怒鳴る。みなが首をすくめた。  馬渕の演説はその後も続き、市長選、積み立てNISAへと脱線し、東京オリンピックの開会式をボロクソに貶してやっと終わった。 「真斗テメエ、俺の話聞いてたか?」  社員を帰らせ、事務所に二人きりになると、馬渕は声のトーンを落として言った。 「はい。今度の市長選は渥美候補に投票、積み立てNISAはやらなきゃ損、東京オリ」 「たわけ、その前だ。テメエ、自分がしたことわかってんのか。うちの作業着着て暴行なんてするんじゃねえよ。商売できなくなったらどうすんだ。責任取れんのか? ええ?」  ギロリと睨まれる。角刈り頭、太い眉、浅黒い肌の馬渕は、スーパーマリオに登場するクリボーに似ている。 「すみません」  馬渕はひとつ咳払いした。普通なら手が出るところだが、真斗はこの会社のビジュアル担当なので、堪えているのだろう。営業成績もトップ5に入る。 「まあ、癇癪起こしたジジイに腹が立つのも分かるがな。だが暴力はダメだ。もうあのエリアには近づくな。テメエには青葉道(あおばみち)を回ってもらう」 「青葉道ですか」  高級住宅地だ。金持ちは警戒心が強いため、訪問販売には向かない。青葉道は誰の担当でもない。 「俺はテメエのツラならいけんじゃねえかって常々考えてたんだ。ちょうどいい。今日からテメエは青葉道担当だ。有閑マダム相手に高額ふっかけてこい」  馬渕に送り出され、真斗は青葉道へと車を走らせた。三月下旬、日中は暑いくらいだ。歩道を歩く人の中には半袖もいる。背の高い、ボーイッシュな女が目に入り、莉斗が付き合うならああいう女かな、などと考えたりもしたが、やはり女はありえないと即座に否定した。莉斗は生粋のゲイだ。  高校受験が済むと、家庭教師は来なくなった。外で会っている様子もなく、莉斗の性処理はもっぱら先生との思い出に頼りきることとなった。「先生」とうわごとのように呼びながら、ぎこちなく後ろを弄る姿はひどく色っぽく、真斗はそれを盗み見ながらオナニーするのが習慣となった。  莉斗が女を抱けるはずがない。ならば、相手の男は一体誰だ。誰が莉斗にキスマークをつけたんだ。真斗は舌打ちした。前を教習車がたらたらと走っていたので、思いっきりクラクションを鳴らした。
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