マダム

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   朝礼が終わると、馬渕に呼ばれた。大人しく馬渕の車に乗り込む。 「カタログを見た主人から連絡があった。テメエが昨日回った家だ。青葉道一丁目の権田」  峰子の家だ。動揺が顔に出たのか、馬渕がチラとこちらを見、「テメエ、まさかそこのマダム寝とったなんて言わねえよな?」と言った。 「……寝ました」   白状すると、馬渕は舌打ちした。タバコに火をつけ、ウィンドウを下げる。 「やっぱりなあ。そうだろうと思ったよ。問い合わせはその件だ。うちにカタログを持ってきた営業マンを出せってな。俺は知らぬ存ぜぬ、そういうことなら犯人探しに協力しますと言って通話を切った。真斗テメエ、先方に悟られるような真似するんじゃねえぞ。かりに下ネタトークに花が咲いたとして、ネトラレが性癖なんて口が裂けても言うんじゃねえぞ」   倉庫を改造したカフェに入った。ここで峰子の旦那と待ち合わせしているのだと言う。  奥のソファ席に男性客がいた。馬渕が腰を低くし、近づいていく。 「あのう、わたくし、駿府ビルサービスのま、ぶ、ち、と申しますが、権田様でいらっしゃいますでしょうか」  満面の笑みで話しかける。男は弾かれたように立ち上がると、ぎこちなく頭を下げた。百六十センチあるかも怪しい小男だった。額が広く頭でっかちで、前歯が突き出している。見るからに冴えない、陰気な感じの男だった。男は分厚いレンズ越しに真斗をねめつけ、「あなたが本郷さんですか、かっこいいですね、峰子とセックスしましたか」と抑揚のない声で言った。セックス、という単語に近くの女性客が顔を見合わせ、クスクスと笑った。 「とんでもないっ、うちは誠実が売りの会社です。倫理観だけでお客様との信頼を築いたと言っても過言ではありません。先ほどこいつを詰問しましたが、わたくし、彼はけっしてそんな悪事を働くような男ではないと確信いたしました。権田様、どうぞご覧ください。この澄み渡った瞳」  馬渕がスッと真斗の顎下に手を添えた。 「でも、誰かと寝ているのは間違いないんですよ。峰子の下着を見ればわかります」  権田がソファに座り、馬渕も「わたくしどもも、失礼します」と言って、向かいに座った。真斗も隣につく。 「おお、なんと……心中お察しします。夜は眠れておりますか?」  権田は力なくかぶりを振った。 「そうでしょう。わたくし、実は二度、妻の不貞で離婚しております。当時のことを思い出すと、今でも胸がギュギュギュッと張り裂けそうになります。権田さん、どうでしょう。わたくしどもにリフォームを任せてみませんか」 「なんでリフォームになるんですか」  権田が胡散臭そうに目をすがめる。  水を持ってきた店員に「ホットコーヒー二つ」と馬渕が注文する。権田は既にテーブルに置かれたコーヒーに口をつけた。馬渕はおしぼりで顔をゴシゴシと拭くと、言った。 「権田さん、浮気は証拠集めが肝心です。現段階で、浮気を疑う要素はいくつありますか? 下着が派手になった、くらいでは、奥さんは平気でシラを切りますよ」  権田が俯く。はっきりとした証拠はないのだろう。 「そこで権田さん、リフォームですよ。カメラを設置するもよし、盗聴器を仕掛けるもよし」 「そんな……は、犯罪じゃないですか」 「何をおっしゃる! 権田さんの城でしょう。どう作り変えたって罪に問われることはありません」  馬渕が素っ頓狂な声で言う。 「で、でも、あの家は峰子が一から……内装にこだわって造った家なんです。だから僕が勝手なことをしたら、きっと怒り狂います」 「ほう? では今のお家は、権田さんのご意向に沿ったわけではないと?」 「そりゃ……そうですよ。あんな派手な家……煙突だって結局使っていないし」  馬渕は身を乗り出した。 「権田さんは、もしや輸入住宅にお住まいですか?」 「……ええ」 「そうでしたか……いやあ、それなら一度、木材の点検だけでもしてみませんか。いやね、輸入住宅のリフォームをここ三年のうちに二十七件行ったのですが、いずれも木材の劣化が激しく、結局、丸ごとリフォームという事例が相次いでいるんです。そもそも湿度の高い日本の気候にカナダの木材は合いません」  リフォーム事業などまだ始めてもいない。さすが口先だけでのし上がった男だ。 「はあ……そうですよね。まだ十年しか住んでいないのに、ウッドデッキなんてボロボロですよ」  権田が卑屈に笑う。 「十年っ! 輸入住宅は大体そのくらいであちこちガタが出るものです」  店員がコーヒーを運んできた。馬渕は一息に飲み干すと、空のカップをひょいと掲げ、「水回りはジャパンメイドに限りますよ」と笑った。
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