マダム

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   権田はホテルチェーンの御曹司で、支配人という肩書きがあるものの、現場では仕事のできない三男坊と揶揄されているらしい。  馬渕はホテルのリニューアルを企んでいるのか、権田と頻繁に会うようになった。たいてい真斗も連れていく。馬渕には人の懐に入る天賦の才能があり、飴と鞭を器用に使い、一回りも年上の権田をあっさりと手懐けた。 「前より酷くなってる」  酔い潰れた莉斗の背中をかきながら、真斗は言った。莉斗は床にぺたんと座り、ソファにぐったりと伏せている。 「……長山の奥様が、娘の誕生日に、時計をプレゼントしたいって言うから……パテック・フィリップの時計を勧めたら……高いって……こんな、高いものをプレゼントしたら、娘の金銭感覚が狂うって……俺は常識がないって……」  背中をかくと素直になるのか、莉斗はこうして弱音を吐く。権田の家には隠しカメラを設置し、浮気現場はバッチリ撮れている。峰子との関係を終わらせる手段を持ちながら、それを使わないのは、この接触を失いたくないからだ。 「意味わかんねえよっ……高校時代に医療脱毛に百万使ってんだぞ……もう、その時点で金銭感覚狂ってんだろっ! なのに……腕時計三百万は高すぎるって……やっぱり俺は平民の価値観だって……」  莉斗は目元をゴシゴシと擦った。 「同期に……社長令嬢がいるんだ。彼女、今月の売り上げ二千万だって。金持ちの知り合いにカード作らせて、付き合いで買い物させてんだよ。俺……これ以上差、つけられたら、課長になんて言われるか……だから……だから欲、出したんだ。そういうの見抜かれたのかな……」 「そんなのと比べたって仕方ないだろ。ノルマ達成できてんならいいじゃん」 「もっと……」  莉斗の濡れた目がこちらを向いた。 「もっと、かいて」  弱々しい表情を見せつけられ、グッと心臓の奥が軋むように痛んだ。 「治せよ……ストレスの原因と距離をとって」  本当はずっとこうして触れていたい。でも願望を貫くには莉斗の顔色が悪すぎた。これ以上苦しんでほしくない。背中の厚みまで減っているような気がするのだ。 「かゆい」 「働き方を変えたらいい。ノルマだって、達成しなくてもリンチされるわけじゃないんだろ」  莉斗は小さく笑った。 「お前んとこはリンチされるのか?」 「顔の形が変わるくらい殴られる。首から『給料泥棒です』ってフダ下げて、裸で事務所の床掃除だ。みんなそれが嫌で必死だよ」 「辞めた方がいい」 「莉斗もな」 「かゆい」  皮膚を傷つけないよう気をつけながら、全体を満遍なくかいた。背中から胸元に手を滑らせて、乳首をつねったら、どんな反応が返ってくるだろう。日に三度は考えるが、実行はしない。 「それ、きもちい」  こっちが何を考えているかも知らずに、無防備な男は目を閉じ、眠りに落ちた。峰子は莉斗の方が年下だと思っている。目を閉じていると余計に幼く見え、真斗も自分が弟であることに違和感を覚えた。もっともこれは幼い頃からの感覚で、慣れている。この感覚こそが恋愛感情の根源だと真斗は確信している。兄が兄ではなくなる瞬間……家庭教師にいイタズラされたり、弱音を吐く姿に自分は興奮するのだ。  赤くなった皮膚をそろりと撫でる。自分でもかいているのだろう、所々にかさぶたがある。 「かいたらダメだって言ってんだろ」  これ以上酷くなってほしくないと思う。でもそれと同じくらい、かゆみを我慢できず、皮膚を傷つけてしまう兄を愛しく思った。傷んだ身体を抱き抱え、寝室へ運ぶ。 「少し休め」  ベッドに寝かせ、惜しむように背中を撫でた。今日もそれ以上のことはしなかった。
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