マダム

1/12
前へ
/12ページ
次へ
 首元に赤い痣があった。本郷(ほんごう)真斗(まと)は思わず兄の肩口をグイッと掴み、それに触れた。 「なにこれ」  フイっと背けられた色白の頬が、じわりと色づく。  仕事帰りに兄のマンションに寄ったのだ。兄、莉斗(りと)は二十七歳で、百貨店の外商部に勤めている。ゆえにきちんとした身なりが求められ、キスマークなど論外だ。 「これ、キスマークだろ」 「……お前には関係ない」  否定しない。一体、誰につけられたのだ。まさか相手が女ということはあるまい。莉斗は人気若手俳優に似ていて、にっこり微笑んだだけで大半の女は恋に落ちる。二十代で外商部に抜擢されたのも、恵まれた容姿が理由だろう。そんな男が二十七年間恋人を作らなかったのは、恋愛対象が男だからだ。  真斗がそれを知ったのは中学一年生の時だった。子供部屋は共同で、ロフトがあった。その日、真斗はロフトで漫画を読んでいた。莉斗が帰ってきたことには気づいていたが、漫画に夢中で、声をかけることはしなかった。そのうち家庭教師が入ってきたが、構うものかと漫画を読み続けた。 「違う。ここは七十五分を四分の五時間に変えて当てはめて。そう。そうしたらAとBの比率は?」 「い……んっ……いってん、ご……ごばい」 「そうだね。じゃあA対Bは?」 「に、にっ……たいっ、さんっ……」 「そう。じゃあその比率の差は、実際の時間にすると何分?」  会話が途切れ、莉斗の荒い息遣いだけが部屋に響き、真斗はやっと異変に気づいた。そっと下を覗き見る。莉斗と家庭教師の大学生は、ロフトに背を向け、並んで勉強机を向いている。莉斗は不自然に前のめりで、薄い背中が大きく上下に揺れていた。 「莉斗くん? 実際の時間の差は何分?」 「ひっ、う……ああっ、う、ううっ」  本能的に見つかってはいけないと判断し、真斗は身を引っ込めた。恐怖から、噛み締めた歯がガチガチと音を立てた。 「莉斗くん、答えて」 「あっ……もっ、と、とめて……とめて、くださっ……」 「答えたら止めてあげる。莉斗くん? 実際の時間は?」 「ひっ……あっ……うっ……」 「タイムアップ」 「やっ、あっ、んっ、ううっ」 「触っちゃダメだよ。いい? Aは三十キロ進むのに七十五分かかってるよね? BはAよりも一、五倍早い。ということは……って莉斗くん、先生の話聞いてる?」 「き、いてっ……ます……は、あっ」 「じゃあ実際の時間の差は? 何分?」 「あああっ! やっ、やっ……」 「いけない子だね」  莉斗はいじめられていると思った。でも聞いているうちに、違うとわかった。莉斗はしきりに「先生」と甘ったるい声で呼び、先生の言うことを従順に聞いた。先生が服を脱げと言ったら脱ぎ、股を開けと言ったら開いた。  その日から真斗はロフトに身を潜め、二人の情事に聞き耳を立てるようになった。優等生で隙がなく、大人にすら気を遣われる兄が、弟の自分には傲慢な態度で接してくるクソ生意気な兄が、女の子みたいに喘ぐ姿がたまらなかった。弱味を握った気になり、莉斗に何を言われても、たいてい許せるようになった。 「またラブレターを貰ったんだね」  家庭教師は週に三回、四時半から六時まで。その日も真斗はロフトで聞き耳を立てていた。この頃先生は乳首責めにハマっていて、莉斗を背後から抱き抱える姿勢で、熱心に胸の突起を弄りながら、勉強を教えていた。 「この子はどんな子?」 「て、テニス部っ……でっ」 「へえ、じゃあ日に焼けてるの?」  莉斗の亜麻色の髪が、頷くのに合わせて小刻みに揺れる。 「いいね。莉斗くんは白いから、きっとコントラストが綺麗だろうね。それで、返事はどうするの?」 「ふ……こ、ことわり……ますっ」 「どうして?」 「お、れっ……女、は、嫌っ……です」  薄々そうではないかと思っていたが、はっきりと聞いたのは初めてだった。きっと両親も知らないだろう。 「せんせ……先生っ……おれ、先生がっ……いっ、んっ」  先生が莉斗の顎を片手で捕らえ、器用に振り向かせ、唇を重ねた。音の立つ淫靡なキスに、真斗は相手が兄というのも忘れ、股間を硬くした。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加