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「スカートが短いな。あああ、あんなに胸の谷間をさらして。寒くないのかねぇ」
「はっ、おっさんですね。いったいどこ見てるんですか」
名残惜しそうに往来から視線をはずし、藤枝伸伸は不機嫌そうな君島菜穂菜穂の顔を見た。
「これもセクハラになっちゃうのかなぁ。あああ、いやなご時世だねぇ。道行く人を眺めているだけなのに」
「っていうか、言い方がおっさんみたいで面白くないんです!」
「キミがどう思うが、俺にとってはどうでもいい。だいたい一人でコーヒー飲んでるのに、勝手に隣りに座ったのはキミだろう」
菜穂は唇を尖らせる。その通りだ。大学のゼミの先生。卒論の指導教授。校門をでたところで見つけた。専攻している倫理学について質問したい、というわけでもなく、後をつけてしまった。
好きだから。
同世代の男子にはない大人の魅力。ちょっとチャラい感じが悪魔的で、くったくなく笑う顔は少年のようだ。どこか浮世離れしているが、講義中のひきしまった視線はクールでしびれる。
わかっている。しょせん片思い。でも、好きなものは仕方がない。
だが、時々投げかける、女として菜穂を見つめる眼差しに、ふと手ごたえを感じてしまう。またたく間に消えうせてしまうのだが。
気のせいなのかな。その正体が知りたくて、つっかかちゃうのかな。
猫が飼い主にじゃれているような、足元で猫パンチをくらわしているような、ヒトにとって話にならないやり方の繰り返し。これじゃあ、大人と子供だ。
「だって、先生なんですから。べつにいいじゃないですか」
「おかしいなぁ。これは時間外労働なのかな。いまどきの人は公私の区別をはっきりさせたいんじゃなかったのかな」
菜穂は真っ赤になってうつむいた。悔し涙があふれそうになる。
先生にとって自分は飯のタネ。それ以上でもそれ以下でもない。来春には卒業でもうすぐ会えなくなってしまうのに。いてもたってもいられず、ストーカーまがいに追いかけてしまった。
トールサイズのコーヒーを頼み、窓際のカウンターに腰かけたところで声をかけた。
「ああ、キミか」
それだけ言うと、革製のビジネスリュックから書類をだし、世間話のひとつもせず読みはじめた。
えっ、それだけなの。
話しかけたいが、何をどう切り出せばいいかわからない。することもないので、カフェラテをちびちび飲みながら、端正な顔をチラチラ眺めていた。高い鼻梁に切れ長の眼。塩顔に分類されるだろう。
ついと顔をあげたかと思うと、先ほどのセリフだ。
言葉をこぼせば涙声になりそうで、無言で席をたった。
「帰るのか」
もの問いたげな表情でじっと見つめられた。
ああ、まただ。特別な存在と錯覚してしまう、射貫くような視線でまっすぐ自分を見つめてくる。
頬杖をつき、軽く首を傾げ、憂い気に微笑む。
天性のプレーボーイか、悪魔様か。菜穂は振りきれない。
「場所を変えませんか」
ついて出た言葉にパニックに陥る。この期に及んでまだ諦められないのか。恥ずかしさでいっぱいになる。もうまっすぐ見られない。
恋とはどうしてこんなにままならぬものなのだろう。
返事をまたずにクルリと背を向けた。同時にやわらかい声が追いかけてきた。
「いいだろう」
えっと立ち止まった菜穂の肩に手が置かれた。見上げると先生がおかしそうに笑っていた。
これは、残業代を払わないといけないのだろうか。
「キミも来年は社会人だからな。餞別だ。覚悟するように」
そうして先生はニヤリと笑った。背筋がゾクッとする。ど、どこまで覚悟すればいいのかしら。
タクシーを拾い、大通りから1本はずれた高級感のあるバルに連れてかれた。ふだん友達と行くような店ではない。ドアを開け、菜穂を先に行かせる。レディファーストだ。先生はウインクをし、こういうのにも慣れておけという。
クリーム色の壁紙に印象派の絵画が飾られ、丸テーブルには花が活けられていた。木製のテーブルは重厚感があり、アンティーク風の木の床は歩くと、コツコツと音をたてた。隣りの席とは壁で仕切られた、半個室。
適当にワインと食事をオーダーし、先生は長い指を組んで菜穂を見つめた。
今まで入ったこともない高級感のある店。菜穂の心臓はドクンとはねあがる。
「さて、俺は教師でキミは生徒だ。それはいいね」
どういうことだろう。どんなシチュエーションだろうが、菜穂にとってはデートだ。何度も妄想した、正真正銘のデートだ。あえて釘を刺さなくてもいいじゃないか。
「キミはとても可愛い。時おり見せる表情にドキッとする。大変に魅力的な女性だ」
意外な賛辞に心臓がまたもや飛び跳ねる。突き放されて、優しくされて、これってDVじゃないの。
菜穂は混乱する。
「だが、まだ完成されていない。若さとは、いうなれば未完の美なのだよ。やがて個体として完成していくが、完成形は人それぞれだ。未完を通して人はそれぞれの完成形を思い描く。あるだろう姿。こうあって欲しい姿。妄想の部分だな。実態のない美。
老いて魅力がなくなったと感じるのは、思い描いた美との乖離が甚だしいからなのかもしれない。人間は死ぬまで完成しないものだが、少なくとも未完の美からは遠ざかっていく。たとえそれが歪なものになっていくとしてもだ。
完成‥‥成熟がうまくいかないと思っても、受け入れざるを得ない。日本には滅びの美学とか、破調の美というものがある。肉体は朽ちていくが、それにも美があり、欠損、壊れたものを金継し、元のモノよりさらに美しさを引き出したりする、そんな美学が日本にはある。
当たり前の話だが人生をDIYしているからこそ、どんな時間であれ、慈しむ。すべては味になっていく。過去はけして捨て去るべきものではない。なかったことにもできないしな。
未完の美から、滅びの美への移行。ふむ、日本の美学とはスーパーポジティブだな」
やっぱり、これはデートじゃないんだな。菜穂は下唇をそっと噛む。
「俺が見ているキミは、今のキミなのか。未来を通した‥‥自分の願望の、こうなるであろうキミを見ているのか、正直わからない。キミの素直さ、真面目さは好ましいと思うが、人生を生き抜くには諸刃の剣だ。できることなら、障害をとりのぞいて幸せな道を歩いて欲しいと思う。が、こればっかりはそうはいかない。己れの人生は己れだけのモノ。何人の干渉をも拒む。
よって、キミにはこれからいろんなことが待ち受けている。世の中善人だけではないし、善人同士の軋轢もある。教育はキレイごとだけを並べ、マスコミは若者が絶望するようなことしか煽らない。まっ、みんな生活がかかってるからな。人が敏感にならざるを得ない感情‥‥、怒りや悲しみ、損得等をうまく転がす。
大事なことは、程度の差こそあれ、人生とは戦場なのだよ。矜持を持ち闘っていく。勝利の美酒に酔いしれることができるのは、闘った者だけだ。流した涙、血や汗も、時には傷跡が残ることもあるだろう。
勇者だ。そこには男女のへだてもない。勇者の放つ圧倒的な存在感は他者の追随を許さない。人間の魅力とは、どれぐらい闘っているかで決まってくる。世界平和のために闘え、というんじゃない。日々生き残るために、知略を尽くす。大袈裟じゃなくてね。そのくらいの気構えで社会に出た方がいい」
こうなってくると講義と思って聞いた方がいい。人気の先生とマンツーマン。まっいいか。
「あの、先生はその考えに至ったのですよね。まさか、学生の頃からそう思ってたわけじゃないですよね」
「俺の話にはまだ続きがある。質問は後で受け付ける」
はい、はい、さようですか。今度は王様か大統領か。
「キミは俺に恋している」
ズバッと言い当てられ、耳まで熱くなる。暗がりで良かった。昼間だったら恥ずかしくて逃げだすところだ。
「ちがうかな。俺なんか好きになっちゃいけないけないのになぁ」
先生はやれやれと頬杖をついた姿勢で前髪をかきあげた。瞳は甘いままだ。長い指に目が吸い寄せられる。
指先の色気だけでトキメクなんて、なんか、ずるいなぁ。
「ちがわないです」
悔しいがその通りである。もっとも誰が見てもそのまんまだろうけど。全身から好きがダダ洩れなんて、穴が合ったら入りたい。
「ここからがメインテーマだ。キミは俺を理想化し、俺の本質を見ているわけではない。早い話が恋に恋している状態だ」
「そ、そんなことないです!!」
「質問はあとだ」
はい。
「悲しいかな。人間はいくつになっても、理想の恋に恋していく生き物だ。己れの人生。理想の世界観。自分の宇宙のプロデューサー。自分の妄想の世界でキャスティングしたい人物がいれば、容易に恋に落ちる。落ちたと思ってる」
これって、恋心を分析されているの??
「キミもイケメンが好きだろう。俺は見ての通りイケメンだ。身長もあり、体型は細マッチョ。知的と言われる職業にもつき、収入も悪くない。専門分野での評価も高い。いわゆるキミたちの表現でいうスパダリだ。よって女性には不自由しない」
そこで先生はグラスのワインを飲み干し、乾いた笑い声をたてた。
もしかして、酔っぱらっている??説教魔??
「非モテが聞いたら、殴りたくなる話ですよね」
「キミも俺がイケメンだと思うか」
め、目が据わってる。ペンダントライトの灯りに照らされた瞳はキラキラしていて、吸い込まれそうだ。
「はい、先生はイケメンだと思います!」
満足そうに頷くと、伸は菜穂の手を撫で始めた。
えっこれは、セクハラなのでは。好きだからいいけど。
「イケメン、これが実にややこしい。美の基準は、時代によってちがう。流行りの顔など、数年単位で変わる。しかも国がちがえばランキングも変わる。つまり、イケメンというのは一見物理的評価のようだが、その実主観によっている。早い話が実態がない」
いったい、先生はイケメンと言われたいのか、言われたくないのか。手は相変わらず菜穂の指を弄んでいる。皮膚が熱を帯びていく。
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