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桜の咲く頃、2階の研究室から構内を見渡した伸は、新入生の顔ぶれを眺めた。熱心なサークル勧誘があちこちで繰り広げられ、構内はごった返しだ。
准教授となると個室が与えられる。だいたい一人でいるが、今日は心理学の准教授倉田もきて一緒にコーヒーを啜っていた。
「今年もこの季節がやってきたな」
「ああ、現役も浪人も初々しい顔してるよなぁ。俺たちもあんなだったんだろうか」
「倉田はどうかわからないが、俺はまちがいなく初々しかったと思う」
「よく言うよ。理屈こねくり回しているひねたガキだったろう。そのくせ自意識過剰でさ」
「はっ、女の子の気持ちが知りたくて心理学を専攻したおまえに言われたくないぞ」
倉田は高校、大学の同級生だ。日本の大学を卒業後米国の大学院に進んだ伸だが、交流は途絶えることはなかった。卒業し、そのままアメリカで助教をしていたところ、倉田に呼ばれた。
従来の社会通念ではカバーしきれない状況の変化に、今こそ倫理が問われている。旧来の価値観の矛盾は露呈され、二元論で説明できない複合的なゆがみは、そこかしこに悪影響を与えていた。
特に応用倫理に分類される生命倫理学、環境倫理学、AI含むデータ倫理学、科学倫理。それらは喫緊の課題だろう。今や、他分野をまじえた包括的な倫理観の確立がまたれている。その中心メンバーにいるのが母校の板垣教授だ。
「うちの大学が倫理学を教えられる先生を探していて、板垣教授がおまえを推薦したんだ。論文も気に入ったようだぞ。どうだ、ちょっと考えてみてくれよ」
こうして現在、大学で教鞭をとっているわけだが、倉田といるとふざけあった学生時代にすぐ戻ってしまう。
「いいなぁ。みんな瞳がキラッキラしてるぜ。あれなら『キミの瞳に乾杯』ってのもわかるな。って、古いけど」
未来の偉人の卵がいっぱいだよ、うんうんと手のひらを拳で叩きながら倉田ははしゃぐ。
「新入生なんて、何度見てもコドモ、コドモしてるな。芋っぽいというのか、田舎臭いというのか」
「おまえそれ、すでに放送禁止用語になってるぞ」
「面倒な世の中だぜ。これからあの子たちがどう変わっていくか、眺めているのが楽しいんだよ。Before Afterみたいでさ。最初に下げてあった方が上昇率があがるだろ。伸びしろがあるってことさ。いろんな出会いを通して、いろんな経験をして。ドラマティックに変化する。先生も悪くないね、青春の群像劇をリアルで見られるんだから」
伸は目を細めながら、学生の群れを眺めまわした。
「さて毎年恒例の、迷える子羊たちの『どの子が気になるかランキング』やるか?」
「おう、それそれ」
バタンとドアが開き、今年4年生になる新庄力が顔をだした。藤枝ゼミのゼミ長である。
「な~んか、下衆な笑い声が聞こえると思ったら、またろくでもないことやってるんでしょ」
雑用から何までやってくれるから、秘書か執事みたいなポジションになっている。本人の弁はパシリだが。
「おう力も加われ。人を見る目を養う機会だ」
何いってんすかぁといいながらも、力も窓から顔をだした。
「うわっ、まぶしい。笑顔がはじけてますね。ピッチピチじゃないっすか。俺もあんなんだったのかな」
「いや、もっと芋っぽかったぞ」
力がむくれる。「ひどいっす」
「いや、それがすんごく可愛かった。ハグしたかったくらいだ」
伸が力に抱きつこうとする。
「ちょ、ちょっと。もう、やめてくださいよ。これセクハラっすよ。それに、先生の信者に殺されちまう」
「ああ、可愛いな。力は」
「ホントだな。まだまだ初々しい。」
3人でたわいのない会話に興じながら、あれ?とかすかなひっかかりを覚えた。全員そう思ったようで場が静まり返った。
見ると若草色のコットンセーターに白いスキニーパンツをはいた少女が歩いていた。髪は肩までのストレート。大勢の中でスポットライトを浴びたかのように人目を引いていた。
見る者の視線を奪う、堂々としたたたずまいは、その姿勢の良さからくるものだった。
「ダンスかな」
「いや、武道でしょ」
「陸上かも」
感想は三者三様だったが、誰もが姿勢のよさにくぎ付けとなった。勧誘されて断る所作も優雅だった。
それが菜穂との出会いだった。
「いやぁ、あの子、彼女にしたいっしょ」
力が今にも駆け出しそうな勢いでいった。
「姿勢がいいだけで、こんなに目立つとはな。世の婚活女性に伝えたいよ」
倉田も感心したようにいう。
「笑顔もいいっすよ。どこのサークルに入るんだろう。あっ俺、サークル勧誘してきます!」
倉田がやれやれと大袈裟に両手をひろげた。
「現役かどうかで行動の差がでるな」
「俺は既婚だが、おまえはまだ独身だろう。バリッバリの現役だ。そろそろ身を固めないのか」
伸は退屈そうにあくびをすると、お代わりのコーヒーをいれた。「俺は結婚しないね。興味がない。女の子は大好きだけど」
ずっと目をやったまま思う。あの子の学部はどこなんだろう。どの授業を受けるんだろう。履修してくれたらいいな。伸は心がはずむのを感じた。
季節は巡り、構内のイチョウが色づいた頃だった。あまりのキレイさに傘をさしたまま立ち止まっていた。そのうち視界のはしに同じことをしている人物に気がついた。
通常なら、フードに隠れ、視界不良の中では誰だかわからなかったかもしれない。だが、伸にはすぐわかった。あのシルエットは菜穂だ。
目が合ったように感じた。同じ時間を共有したかと思うと自然に笑みがこぼれた。彼女も笑顔になる。
ああ、可愛いな。今のままのキミでいてほしいような。いい女に成長したキミも見てみたいような。人間としてどう開花していくのか、女としてどう成熟していくのか、そばでずっと見守っていたい。
ふいに、喉が渇き、下半身に痛烈なうずきを感じた。
文学部人文学科。2年生からはコースに分かれる。締め切りはクリスマス前。もうあといくらもない。
心理学を勉強しようと思っていたが、藤枝先生を見てからは倫理学コースにも興味がわいてきた。何といっても講義がおもしろい。応用倫理学の授業になると、もっとおもしろいという。初めの60分は概論だが残りの30分が秀逸とのことだ。
教壇に目安箱みたいな箱が置かれ、そこに生徒が質問文を投げ入れる。授業の終わりにそれを読み上げ、次回の授業のお題目を挙手で決める。多数決の場合もあれば、先生が勝手に決めることもある。各自その答えを考え、当てられた者は答えなければならない。なかなか緊張する授業だが、質問は何でもいいことになっている。
先生は結婚しないんですか?には、全員が挙手したが、即座に却下された。それだけで笑いがとれるからたいしたもんだ。時にはディベート形式を取り、善悪の彼岸とか、正義とか学生に論陣をはらせることもある。
また時々他学部の先生もゲストに招き、俯瞰的に問題を考えさせることもある。心理学、法学、理学、経済学。人脈の広さは驚嘆に値する。
この講義は履修しようと決めている。
雲の上の存在へのあこがれ。同世代にない大人の雰囲気に、授業そっちのけで、ついうっとりしてしまう。態度も話し方も新鮮だ。
まあ、はしかみたいなもんだよね。一時のあこがれで進路を決めるのもなぁ。って、心理学はなんで勉強したいと思ったんだろう。
「菜穂、遅れてごめん。でっ、コース決まったの?」
夏からつきあっている深見雄太が待ち合わせの校門で肩を叩いてきた。昨夜のLINEでもんもんとコース選択の悩みを打ち明けていたのだ。
「心理も倫理も就職に有利とは言えないんだから、菜穂の好きな方にしろよ」
経済学部の雄太は経済が好きだったのだろうか。就職に有利というだけで選択しただけのような気がする。
校門をでるとガッチリと手をつながれた。それだけで恋愛脳になる。声に甘みがでてきてしまう。
「だってぇ。どっちも興味あるんだもん」
「しょうがないな。そういう時はコインを投げるんだよ」
したり顔でいう雄太に、菜穂はクックと笑った。「非科学的ぃ」
同じサークルの4年生。IT関連の会社で内定をもらい、来年からは社会人だ。着実に前に進んでいる。
コース選択は就活の前哨戦か?とにかく決めなきゃならない。時間は待ったなし!
すぐ決められる人はいいな。
「雄太ってさあ、決断早いけど、みんなコイントスしてるの?悩んでるとこ見たことない」
「男は強がりなんだ。彼女に弱みなんか見せられるか」ぎゅっと手に力が入る。「それに、菜穂と会えば、悩みなんかぜ~んぶ忘れちまうさ」
耳元でささやかれた。熱い吐息がくすぐったい。
雄太は会うとすぐ抱きたがる。
買い物をして菜穂の部屋に入ると、雄太がすぐ抱き寄せてきた。まだ冷蔵庫に何もしまってないのに、いつもこうだ。
キッチンと6畳間の洋室。ロフトベッドがあるが、ギシギシいうせいか雄太は好まない。それ以外の場所ならどこでもOK、どこでも愛の場所。今はシンクの前だ。唇をついばまれ、するりと素肌に触れてきた手が胸をまさぐる。
ブラを押し上げ、乳首を指でつまむ。
「ああ、だめえ。またこんなところで」
「我慢できないよ。昨日からずっと我慢してたんだから。昨日だってホントは声を聞きたかったんだけど、聞いたら止まらなくなりそうだからさ、LINEで我慢したんだ」
人がコース選択で真剣なのに。悩んでいたのに、頭の中はそれなの?
「立ったまましていい?」
返事も待たずにパンティに手がかかった。スカートの中に雄太の頭がすっぽり入る。途中まで両手でおろし、菜穂の性器を舐めあげながら、器用に脱がしていく。立ってられないような快感の波に、膝ががくがくしてくる。
「ああ、すごい濡れてきた。後ろ向いて」
腰に手を当てられくるっとまわされた。すべての感覚が一点に集中する。いまか、いまかと芯が開き始めた。雄太を咥えると、力強い律動が菜穂を高みへと昇らせていく。
ああ、どうしてこんなことしてるんだろう。キッチンでするなんて、ビッチな気分。
果てると雄太はサッパリした顔でシャワーを浴びにいった。菜穂は後から入ると伝える。買ってきたものを冷蔵庫に入れないと落ち着かない。脱ぎ散らした服も気になるし。
ベッドだったら優しいピロートークもできるけど、キッチンの床で性器だけ露出したままなんて余韻もへったくれもない。
何だかなぁと思うが、雄太のことは好きだ。ぐいぐい引っ張ってくれる感じは男らしくて頼もしい。隣りにいればそうそう誤りを起こすこともないだろう。
会えばいつでもお花畑。周囲にも優しいといわれる雄太に、菜穂は夢中だった。雄太も菜穂に夢中のはずだった。少なくとも学生の時までは。
環境が変わるとつきあいが変化する。学生と社会人では見ている景色がちがってくる。
菜穂はあまり我儘をいうタイプではない。連日の残業や会社のつきあい等でデートの回数が減ってしまっても、文句は言わなかった。
週末夜遅くやってきては、菜穂を抱き、翌日は昼まで寝ている。その週末のわずかな時間さえも会社のイベント等でしょっちゅうつぶれた。そういう時はただ抱きにくるだけ。夜遅く来て、朝早く出て行ってしまう。
友人に週末の予定を聞かれても、雄太を優先させるから、会えない時はぽっかりあく。正直つまらない。まだ大学2年なのに。
愛人ってこんな感じなのかな。いつ会えるかわからないのに、時間をスタンバイしている。気持ちも落ち着かず、ただ次にいつ会えるか、ということだけを考える。メンヘラになりそうだ。このままずっとそうなのかと思ったらゾッとした。
会話もずれてきた。どこから仕入れてきたのか、他人の言葉で語り始めてきて、何だかもやもやした。お互いにすきま風を感じていたのだろう。
その年の夏がやってこようという時期に、事件が起きた。雄太が浮気をしたのだ。
しばらく会えなかったから、コンパの飲み会帰りに気まぐれに部屋をたずねてみた時だ。虫が知らせたのかもしれない。心が消耗し、時間を浪費するだけの関係を終わらせたかったのかもしれない。
部屋に灯りがついていたが、一応LINEする。
(今飲み会の帰りなんだけど、これから部屋に行ってもいい?)
(悪い!まだ会社で仕事なんだ)
えっ会社?じゃあ、電気はつけっぱなしなだけなの?
(そかそか、わかった。急にごめんね)
LINEを打ってもう一度見上げると、ガラッと窓が開いた。奧にロングヘアの女性とおぼしき影がうっすら見える。
な~んだ、そういうことか。ショックはあまり感じなかったが、雄太と過ごした時間が思い出され、自然と涙があふれてきた。
このままLINEをブロックしようかな。
いや、ケリはつけてた方がいいだろう。泣くのは今夜だけ。
(今、窓の下にいるよ。お楽しみのところごめんね)
踵を返し、駅に向かって歩いていると、菜穂と呼ぶ声が聞こえてきた。
「待ってくれよ」走ってきたのか、呼吸が荒い。「誤解なんだ」
誤解って、何?そんな情事のあとのような顔をして、何の申し開きをするというんだろう。
「他に好きな人ができたんなら、そう言ってくれればいいのに。今までありがとう。さよなら」
「待ってくれよ。話を聞いてくれよ」
手首を握られ、強引に抱きしめられた。振り払おうとするとキスをされた。
「やめてよ。部屋に女性がいるんでしょ。嘘だというならこれから乗り込むわよ」
観念したように雄太がいった。「本気じゃないんだ。菜穂に会えなくて、そのちょっと淋しくて。本気なのは菜穂だけだ。結婚したいと思ってる」
はあ、こんな状況でまさかのプロポーズ!呆れる気持ちがほとんどだったが、嬉しい気持ちも少しあり、そんな自分に菜穂は唖然とする。
やっぱり、まだ好きなんだなぁと思う。男らしくて頼もしい男だったのに。
あせって動揺している顔にはそのかけらもなかった。菜穂の顔は涙でグシャグシャだ。
「ごめん菜穂!傷つけてごめん!一生償うから許してくれよ」
許す、許さないじゃなくて、このままつき合うか別れるかの2択だよ。許して別れを選ぶとか、つきあってるけど許さないとか。
迷ったら未来をイメージすると良い。
藤枝先生の言葉が頭に浮かんだ。そうして心がワクワクする方を選べばいいだけだ。
無意識を表層に浮かび上がらせるアプローチのひとつとか言ってたな。
言葉を反芻したら、答えが簡単に見つかった。財布から500円玉を取りだす。
「許すとか、許さないとか。コイントスで決める!」
表と裏の説明もせず投げた。カンという乾いた音をたて、500円玉が転がり、電柱にぶつかると、ペタンと止まった。
「残念、裏だった!さよなら雄太!早く女の人のとこに戻ってあげて」
どっちの面がでても答えは決まっていたけど、雄太は墓場までコイントスで別れを決められたって思うのかな。
ふふ、これくらいの腹いせ許してね。
2年次からのコースは倫理学にした。イチョウ並木でのあの一瞬で決まったといえる。人気の応用倫理学もコース選択者は無条件で履修できる。
菜穂は雄太と別れてほどなくしてすぐ、質問を書いた紙をBOXに差し込んだ。
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