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コースエントリーの名簿を見て、伸はおっと思わずガッツポーズをした。
倫理学コース。君島菜穂。
名前はサークルの勧誘がてら力が聞きだしていた。伸の講義は人気があるものの、倫理コースを選ぶ学生は少ない。教員をめざす者は歴史や地理を専攻するし、女性は心理学を選択する傾向がある。
倉田の狙いも案外はずれてないかもな。残る変わり者が哲学や倫理を専攻する。
この子もちょっと毛色がちがっているんだな。うん、悪くない。
見上げると鈍色の空は重く、今にも雪が降りだしそうだった。倉田でもからかいに行くか。
「なんだ、お前暇そうだな。こっちは来期の準備で忙しいんだ。卒論の口頭試問ももうすぐだし」
「うん、じゃあおつかれ生でした。軽く飲みにいかないか」
ちぇっ、仕方ないなぁ。嫁に連絡しとくよ。
愛妻家の倉田は行動を逐一連絡する。本人は恐妻家といってるが、惚れてる様子が丸わかりなので説得力がない。
「でっ、やけに嬉しそうだが、結婚の報告か」
とりあえずビールで乾杯する。男二人個室での乾杯はわびしい気もするが、倉田は声がでかい。しかもよく通り、さすがはグリークラブの出身だと思う。
「結婚した奴って、すぐ人に勧めるよな。そんなに独身と既婚者ってちがうのか」
「童貞と経験者のちがいかなぁ」
「ハッ?何それ」
「最近は見た目ではどっちかわからないが、見えてくる世界がちがうということかなぁ」
「そんなもんかぁ。結婚しなければ見えない世界って、神秘だけどね。でもこれだけ離婚率が高いとねぇ、見えた世界は何だったのか。事実婚も増えてるしさ」
伸には男女が結婚する意味がわからない。実際そう考える人が増えたのか事実婚は増加の一途だ。
ーわたしがわたし達になる!わたしがなくなりそうで怖いー
ー自由が奪われるー
ー対等でいたいー
ググると、事実婚の本場、フランス人のインタビュー記事がこれでもかとヒットする。さすが、サルトルとボーヴォワールの国だ。
「まっ、結局のところ、俺の場合は同じ女とセックスしてると飽きるんだよなぁ」
「それは愛じゃなくてパッションだからだろ。好きな女性を掘り下げると人間性が豊かになる。それこそ充実のセックスライフが待ってるぞ」
「結婚するとセックスレスになるんだろ」
「ああ、最近よく聞くな。俺からすると信じられない話だが、日本においては半数以上がそうらしい。世界で見てもレス大国だ」
「ふーん、性産業世界一の日本なのにね。愛と結婚は別、性と結婚も別とは。あ、そうか、男女の友情は結婚において成就するわけか」
「おまえなぁ。みんな、それ前提で結婚してないから。何というか、レスは明確な数値なんだよ。可視化されたというのかな。会話とか信頼とか尊敬とか、主観なんてそれぞれ。自分の数値がわからない。不満をためてれば信頼レスになるし、それだって波があるから、どれぐらい信用が減っているかもわからない。感謝とか愛情表現とか、人によって様々だし、どちらかが物足りないと思っても、それは表現しづらい。そもそも赤の他人なんだから、大なり小なり溝はあって当然。違和感を放置していくと、レスが進行するんだよ。心の問題が表面化したのがレスだ。夫婦の危機のエビデンスだな」
「それ、夫婦終わってね?満面の笑みで結婚を誓う時が幸せの絶頂って。しゃべって、笑って、セックスして、信頼して。それで結婚決めたのに、スタートのはずなのに。
結婚したとたんすべてデリートされるって、思い込みで一緒になったとしか思えないね。普通そんな未来がわかってたら結婚しないだろ」
「ああ、レスは離婚理由になる」
「問題は破綻した夫婦関係をなぜ続けるかだな。子供の問題とか、経済的な問題だろうけど。性的魅力はおいといても、仮にレスでも家庭が機能したとしよう。信頼も愛もないのに共同生活できるなんてすごいな。俺には絶対無理」
「家族プロジェクトだからだ。家族は社会の基礎構成単位として機能していた。家族を組織としてとらえれば、嫌な同僚や上司がいても働くじゃないか。結婚してレスになったとしても、働きやすい仲間であることは確かだ」
「確かに、モラハラ、パワハラでも働き続けるよな。家族と会社は合わせ鏡ということか。ところで倉田はなぜ結婚したんだ」
「結婚というのは、家族をつくることで、社会に認められた、国家の合法的な単位だ。だから保障面や諸々有利になっている。ちょうど今は過度期で家族の在り方も変化しているがね。俺は大事な人を、国民として享受できる権利を行使し、最高の環境で守りたい。彼女も同じ気持ちだ。だから法律婚をした」
「なるほどね。倉田の愛はよくわかった。独身主義がさらに強固になっただけだけど」
「まあ、おまえも好きな女ができたら変わるよ」倉田はニヤリと笑った。「それでも飽きたら、アダム徳永の本を読むといい。いや、もう読んだ方がいいな。貸してやるよ。参考になるぜ。神だな」
倉田の研究は発達心理学だが、結婚したこともあり最近は夫婦問題の研究にも没頭している。あんなん、こんなん、性の悦びを追求中。
既存の価値観を是認できるヤツはいいな。
伸は日本酒を含み、舌にころがる感触を楽しんだ。
伸にとって趣味は暇つぶし。異性は時間つぶし。時間泥棒とも思ってる。時間を共有したいと思うが、自分の時間を奪われることには耐えられない。
彼氏に求める理想論を押し付けられるのがうざい。
女も持てる荷物をなぜ男が持たないといけない?
飲食代やプレゼント代。こっちが全部お金出したって、ファミレスやメルカリはNGときた!恋人はサンタクロースっていう歌があったが、まだ可愛い。パパ活と何がちがうのか。セックスの技術もないくせに娼婦気取りで男に金品を要求する。
白馬の王子を待つお姫様。いまだにシンデレラコンプレックスは健在か。それでいて対等な関係を望む。いったい、その概念はどこで植え付けられたんだ。
ちなみに欧米では恋人同士でない男女の飲食代は割り勘が一般的。
物量作戦でいく男はよほど落としたい女がいるか、あまり女が寄ってこないタイプか。
アクセサリーのように持ち物(恋人)を自慢したがる女のターゲットにされ、伸は時々、狩場でハントされてる野生動物の気分になる。
出会いたいのは同種族だよな。
その同種族だって、愛という呪縛にとらわれ沼に落ちていく。
伸は苦かった過去を思い出して、眉間に皺をよせた。
「家族が空洞化してしまったなら、早晩、家族という単位はなくなるよな。共同体はムラから会社、会社から家族。家族から個人。行きつく先はそこだろう。葬式の変遷を見りゃ、よくわかる。家族葬にかわって、そのうち生前個人葬がなんか出てくるんじゃないか。
なぜ生前葬かって、親も子供もいない、つきあいのある親戚もいない。友達に頼むこともできない。その友達は先に逝っちゃってることもあるしな。現生への区切りで自分の葬儀をやってみたいおひとり様いるんじゃないか」
「介護はだいぶアウトソースできるようになったが、子育てはまだまだだ。それが家族という単位を生きながらえさせている。『家族』は国家が管理しやすいという理由で洗脳しているものでも、宗教でもない。
愛をもって尊とすとなす。そこに愛があれば家族は生き残る。俺は嫁にずっと愛されたい」
倉田の瞳がハートマークになってきた。
「まあ、家族は残るとしてだ。家族の役割は変わってくるんじゃないか。実際稼ぐのも家の中のことも夫婦共同。オールマイティのゼネラリストが求められるわけだ。
考えてみればスペシャリスト‥‥稼ぐ人、家のことをする人の2人でチーム組んでも調整役がいないとぶつかるだけだよな。子はかすがいというが、子供が調整役だったのかもしれない」
効率は悪いが、良きにつけ悪しきにつけヒトの気持ちは個の方向へ流れている。一人で何でもできなきゃ完結できないだろう。できないことはアウトソースに任せる。
「いずれ個人が単位となるだろう。その時、家族の在り方はどうなっているのか。そのうち誰と誰が親子なのかも、個人情報になる時代もやってくるんじゃないか。
税金があがるな。国も役所も手が足りなくなる」
「未来学という分野があるが、研究者は自分の専門において、過去と現在からたぐられる、来るべき未来とその対処法をシミュレーションするのも仕事だ。人間は常に何らかの共同体を必要としている。たとえ家族制度がすたれても、よりよい結びつきがそれに代わると思ってる。
それは愛なんだ!」
倉田がシャウトすると、一瞬居酒屋がシーンと静まり返った。個室といえども防音装置が施されているわけではない。
「わかった、わかった」
大丈夫かよ、こいつ。学会の発表で最後に「愛だ」なんて絶叫してないよな。せめて愛を説く牧師くらいのテンションにしてほしい。
「すまぬ、で、今日の本題だが、枕が長すぎたな。いいことあったんだろう」
「あっ、まあ。君島が倫理のコースを選んだんだ」
「おお、それは良かったな。ついでにゼミに入ってくれれば伸の片思いも少しは落ち着くな」
「バカ。相手は生徒だ。そこらへんはわきまえないと。あの娘は、愛でるのがいいんだ。変化を観察するのが楽しいんだ。いうなれば、推しだよ、推し!」
「強がりいって~、彼氏ができた時は落ち込んでたくせに」
「俺の気持ちに影響を与えていくのを感じるのも悪くないぜ」
「おまえ、本気でそれ言ってる?屈折してるなぁ」
正直、妬けた。所有したいという欲望は普通にある。セックスだってしたい。抱きつぶして自分以外何も考えられなくしたい。性的願望を浮かべるだけで下腹部が充血してしまう。
「短絡的な欲望よりも自己分析がしてみたいんだ。俺って学者だろ。彼女は忘れていたいろんな感情を引き出してくれる。いわば、ミューズだ!」
「おまえさあ、高校の頃から、その理屈こねるクセ変わってないな」
「いいんだよ。とりあえず今は女に不自由してないし。プラトニックってなんだか、自分がピュアになった感じしないか」
「それ、ピーターパン症候群の変形」
「何とでもいえ」
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