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梅雨がそろそろあけようかという頃。構内の植え込みの紫陽花を眺めながら伸は教室へ急いでいた。ドアを開けると学生達がサッとこちらを向く。この時期になると授業にでてこない輩も増えるのだが、かなりの人数が出席していた。
教壇に置いてあるBOXを手に取ると質問文が入っているのがわかった。カサカサッと音がする。
毎週、毎週、学生も飽きないよな。
黒板に本日の講義内容を書きつけていく。学生はあとでこれをスマホで撮るから、伸だけが肉体労働だ。何だかな、と思いながら、視線を浴びながら板書する。
出欠はICタッチだ。代返も偽造出席カードも通用しない。
スリルなくなったよなぁ。ちっ、その見返りがこれか。
板書する必要はないが、講義内容をまとめ集中力を高めていくこの時間が伸は好きだった。もっとも、自分も後で撮っておくが。
講義が終わると先週の質問に対するディスカッションタイムが始まった。
「さて、今回は知る権利だったな」
「マスコミが伝家の宝刀のようによく使う『知る権利』ですが、営利企業であるかぎり、売れるセンセーショナルな記事に傾きがちです。『報道の自由』といいますが、マスゴミといわれるようになったのは、その在り方に問題があったと言わざるを得ません。明確な倫理基準が今こそ必要なのではないでしょうか」
「悪を暴く正義の味方気取りだよな」
「司法試験に合格してない検察官、ケンカの野次馬レベル、自己顕示欲。一部のマスコミ人のせいでますますイメージは悪い。自浄作用を期待するためにも、業界が本気で改革に乗り出さないといけないと思います」
「医療現場では世界医師会のリスボン宣言で『知らなくていい権利』というのが採択されました。これは医療ですが、やがて日常でもその権利を主張する人がでてくると思います。その際のルールや範囲、いろんな状況が問われてくるかと。知る権利を標ぼうする人は、こういった事態にどう対処されるのか、大変興味があります」
「SNSと報道はちがう。情報の裏付けを徹底的にやるから精度が格段にちがうといことを聞いたことがあります。どうでもいいと思っていることをあえて知らせることで社会を変えたいとか。でも『保育園落ちた日本死ね』はものすごいインパクトがありました。生の声は強いです。切り取られた街頭インタビューより、SNSの生の声の方が信頼性が高いこともあります」
「SNSは確かにフェイクも多いし玉石混交ですが、だからこそ真贋を見分ける目が養われるのではないでしょうか。テレビ等はSNSから題材を拾ってきますし、タイムリーに流せるニュース映像の投稿者は一般の方だったりします。SNSとマスコミは敵対するのではなく、相互に補いあっていくべきではないでしょうか」
「報道というか、マスコミに携わる人は、何らかの国家資格が必要なのではないでしょうか。この業界、これといった資格がないような気がします。依頼も口約束が多いと聞きました。進んでる業界のはずなのに、徒弟制度的な組織だったり契約が曖昧だったり、かなり遅れているのではないでしょうか。そこらへんが整備されてくれば、違反があった際に訴訟もスムーズにいきますでしょうし、自浄作用が期待できるのでは」
「ゲスが多いからなんだよ。国民のレベルが低いから売れるんだろう」
「だったらなおさら、国民を成長させるような報道ができないものでしょうか」
「それだと、真実を知らせる使命からずれてくるんじゃないか。ますます印象操作とか、恣意的な行動に走りそうだ。『国民を成長させるつもりだった』とか言いそう」
「TVとのトラブルで原作者の方が不幸にも亡くられました。監査法人のように第三者による定期的なチェックが必要なのではないでしょうか」
学生たちが思い思いに熱弁をふるってる。グローバル化促進のためには、修辞学も必要だよなぁと、伸は生暖かい目で学生を見る。
もともとブレインストーミング方式をとっているので、好き勝手なことを言わせている。学生たちに、問題に向き合い、考える習慣を身につけさせるためのものだ。
話した内容はgoogleアプリで即座に文字に起こされ、当番の学生が最後に体裁よくまとめる。記録に残るので発言者の名前は匿名にしている。若気の至りでその後の人生が面倒になるのは避けたい。
だいたい自分が何ものかもわかってない、借りてきた言葉で語っているだけなのを糾弾されてもね。語彙を増やし、いろいろ経験したり考えることでしか、人の心に響く言葉は確立されない。まあ、その考えも時代や加齢によって変わっちゃうけどね。
観察、発見、想像、創造、記憶、思考、仮説、高度シミュレーション。
幼児期から成人するまでにこれらを習得するのが望ましい。記憶の量が、そのまま思考、考えることの土台となる。運動でいうところの基礎体力だ。考える習慣はその後困難な局面に陥った時、何らかの手助けとなるだろう。成長したいならば吸収するだけでなく、向き合い考えることも重要だ。
ー苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!ー
ベートーヴェンもうまいこと言うようよなぁ。
まあ、なかなかその境地に至るのは難しいが。
ディスカッションは適当に指す時もあれば挙手もある。ランダムに指すと回答が同じになりがちなので、臨機応変に対応している。
挙手があがった。
君島菜穂の手がスッと伸びた。伸が頷くと緊張したのかぎこちなく立ち上がる。座ったままでもいいのだが、人数が少なくないので発言する際は起立を求めている。
相変わらず立ち姿がきれいだな。まっすぐな瞳を向けられると思わず襟を正したくなる。
「知る権利なんですが、自分の知りたい時に知る権利があってもいいと思うんです。事実だから早く知らせた方がいいと判断するのはどうなのでしょう。事実を迅速に知らせるだけが正義とは思えません。
いろんなケースがあると思うのですが、たとえば生い立ちを第三者が開示することです。以前は学校の名簿に親の職業の記入があったそうです。ひどいものでは、養女と書かれた人がいたということです。
個人情報は守られるようになりましたが、他にも親が離婚した場合、理由は子供が疑問を持った時でいいのに、周囲が不用意に言ってしまうことが多々あります。そういった土壌作りも必要なのではと思います」
なるほどねぇ。『知る権利』からいろいろに派生していくな。『曖昧なままにしたい権利』とかそのうち出てくるのかもな。この世に正解はないとも言えるから。
「さて、なかなか活発なディスカッションとなったが、わたしからはひとつ」
挙手する者がいなくなったところで、伸は切り出した。残り時間も少なくなっている。
「墓場まで持っていきたい話は誰にもするなということを言いたい。黙秘の義務だ。例えば死の間際で『昔、浮気したことがあるんだ、ごめん』とかさ。今後その件が蒸し返えされる可能性がないなら言わぬが花だ。言った本人が楽になっただけで、言われた方はだいたい苦しむだけだろう。まあ、浮気相手に子供でもいれば別だが、死後離婚されても文句言えまい」
教室にクスクス笑いが起きる。ほとんどがまだ清廉潔白の身だろうから、他人事だよな。
「これは突飛な例だが、昔読んだ本で、完全犯罪をした主人公が罪の意識に耐えきれず恋人に打ち明けるシーンがあった。残念ながら恋人はそれを受け入れきれず、別れを選択する。愛情は残っているので、誰にも言わないと約束するが、主人公は疑心暗鬼に陥る。いつかバレルのでは、愛しているといったのは嘘だったのか。そこから新たな狂気が生まれ、ついに主人公は恋人を殺してしまう。
すべてをさらけ出すのが必ずしもいいとは限らない。この主人公は自分の重い荷物を恋人に投げたかっただけだ。そこには相手への愛はないと言えよう。
知る権利、知らせる権利、知らない権利、あと、適切なタイミングで知る権利。曖昧なままにしたかった権利。どれかに固執すると悲劇を招きかねないということだ。軽々しく発言しないよう、肝に銘じておくこと。物事は多方面から考察するように。以上。さて、来週のお題の時間だ」
BOXには3枚の紙が入ってた。
1枚目。
「夏は暑くて何もする気になれません。これは気力とやる気を養う修行ととらえた方がいいんでしょうか」
正論をいえばその通りだが、ダラダラ何もしない夏なんて、社会にでればそうそうない。心ゆくまで怠惰を貪ってほしいところだ。
2枚目。
「外国のロマンス小説を読んで感じたのですが、『それをやったらおしまいでしょう』ということでも、許すことがけっこうあり、違和感をおぼえたのです。これは宗教上の懺悔体験が『何をしても懺悔すればいい』ということが背景にあるのではと思いました。『許す』とはどういうことなんでしょうか」
真面目なやつが来たな。
3枚目。
「淋しいことは、自分の信念を逸脱する正当な理由になりえませんが、内容によっては情状酌量の余地があるとも言えます。その切り分けの基準とはどういったものになるでしょうか」
読み上げて、視線を向けたくなるのをグッとこらえた。リアクションぺーパーでさんざ見た菜穂の筆跡。
何があった。
そういえば、最近メランコリックな顔をすることがあったな。それはそれで欲情をかきたて、しきりに喉がかわいたものだったが。
挙手をとってみると、菜穂の質問が来週のお題目となった。2番目の質問はさ来週。講義を終えた伸が最後に教室を見まわした時、目が合ったような気がした。菜穂の髪がビクンとはねたような気がする。さりげなく視線をはずし、教室を出た。
伸の後ろ姿を眺めながら、質問したのが自分だってわかっちゃったのだろうか、と菜穂はあせった。
雄太と別れたものの、喪失感はぬぐえなかった。1度の浮気を許せない自分は狭量なのか。だからといって、結婚も考えていたというのに、どうして浮気ができるのだろうか。
疑問は堂々巡り。理性では忘れようとしても感情がついていかない。頭を空っぽにした方がいいのか、何かでいっぱいにした方がいいのか。
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