杯持ちの音楽家

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 ありふれた国、ありふれた街。  ありふれた人々の中に、常に(さかずき)を持ち歩く、奇妙な男が一人いました。  彼の身なりはよくもなく、悪くもなく。  ただ手にした杯だけは、彼が持っているにしては、綺麗に見えるのでした。  一人が言います。 「彼はきっと、聖人なんだよ。だってほら、いつも杯を持っているじゃないか。あれは多分、神聖なものなんだよ」  一人が言います。 「あいつかい? ただの酒飲みだよ。いつも杯持ってるだろ? あれは酒をねだって注いでもらうのに使ってるんだ、俺は見たことあるぞ、ほらあの酒場で……」  一人が言います。 「あの男は詐欺師さ。杯に何も意味ないよ。でもあいつは、まるで意味があるみたいに持ち歩いて、それから妙なことばかり言うのさ、そうほら、自分は……なんだっけ?」  聖人か。ただの酒飲みか。詐欺師か。  結局何者なのかと彼本人に尋ねれば、彼は杯を掲げ、いつも同じ言葉を返しました。 「いやいや、私は音楽家! 聖人でも、酒飲みでも、詐欺師でもないさ! ま、人並みにいいことはするし、酒は好きだし、嘘も言うことがあるけれど」  さて、ある夜のことでした。  ありふれた街のありふれた夜。ありふれた酒場は酒をあおる男達で賑わっていました。  けれどもその日は、いつもの違い、 「何だとこの野郎! 外に出ろ!」 「いいぜ、やってやろうじゃねぇか!」  普段は仲の良い男二人。酒の入った勢いで罵り合い、ついに激しい口論となり、二人揃って椅子を飛ばしました。 「まあまあ落ち着きなよ」 「二人とも飲み過ぎだって」  それまで面白がって見ていた仲間達は、これはまずいと慌てます。 「うるさい! 関係ない奴は黙ってろ!」  しかし、なだめに入った一人が殴られたことで、酒場で激しい乱闘が始まりました。転がる椅子、割れるガラス、飛び散る料理にかき乱される酒の匂い。そして男達の怒号……。  その酒場には、杯を持ち歩くあの男もいました。彼は乱闘の中、テーブルについたままでした。杯は目の前にあり、中で酒が激しく暴れまわっています。  男は一口、その酒を飲みました。  それから懐から取り出したのは、銀色の棒。まるで透き通っているかのような輝きを放っています。乱闘に怯え隅に逃げていた何人かが、その輝きに気付き、目を見張りました。  ふわりと、男は銀色の棒を掲げます。  そして羽毛が落ちるかのように振り下ろし、先で叩いたのはあの杯。  どこまでも透き通った音が、酒場の騒乱をかき消しました。  それはまるで鐘のよう。それはまるで歌声のよう。  空から響いてきたかの祝福の音。地底の宝石の子守唄の音。  雪が積もる音だったかもしれません。湖に雫が滴った音かもしれません。  長い余韻を残して音は消えていきます。その間、誰も動きません。  やっと静寂が訪れて、はたと、最初に喧嘩をしていた二人が顔を見合わせます。  他の男達も我に返って顔を見合わせて、果に、席についたままの、杯持ちの男に皆の視線が集まりました。 「ご静聴、ありがとうございました」  皆の視線を集めた男は、杯に残っていた酒をぐっと飲みほしました。  * * *  常に杯を持ち歩く、奇妙な男が一人いました。  彼の身なりはよくもなく、悪くもなく。  ただ手にした杯だけは、彼が持っているにしては綺麗に見えるのでした。  皆が言います。 「彼は聖人なんだよ。聞いたかい、酒場での出来事を! あんなことができるなんて、聖人に違いないんだ!」 「酒場に入り浸っている、ただの酒飲みだって。妙な噂があるけど、所詮、噂だろう?」 「あの男は詐欺師で間違いない。酒場でみんなを黙らせたと聞いたが、結局、はったりか何かだろ? で、偉そうに締めくくったらしいじゃないか」  聖人か。ただの酒飲みか。詐欺師か。  それで、本当は何者なのかと彼本人に尋ねれば、 「いやいや、私は音楽家! 聴いただろう、この音を!」  彼は空に杯を掲げるのでした。 【終】
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