月はもう沈み

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 目を閉じて。  眠ってしまえば、空腹なんて気にならない。  瞼の裏側の暗闇を見つめながら、自分にそう言い聞かせる。今までだってそうやってきた。  でもなぜか、今夜はむずかしい。  さっき見た夢のせいだろうか。母の声が、頭の中をぐるんぐるんと回っている。じゃあね。母はそう言った。いってきます、とは言わなかった。じゃあね。じゃあね。じゃあね……。 「……うあっ」  呻き声とともに毛布を跳ね除ける。だめ。寝られない。  私はむくりと起き上がった。せめて水でも飲んでこようと思ったのだ。  忍び足で二階にある自室を出て、里穂子さんと誠司さんの部屋の前を通り抜け、階段を降りる。その途中になって、私は階下の部屋から光が漏れていることに気がついた。とっさに引き返そうかと思ったが、その行動もなんだか違うような気がする。ゆっくり階段を降りきって、恐る恐る、ダイニングへ続く扉を開けた。  煌々とした灯りの下、どこか気まずそうな顔をしてダイニングテーブルについているのは、誠司さんだった。 「ごめん、起こしちゃったかな」 「えっ? あっ、いえ! 私、喉が渇いちゃって……」  真夜中にも拘らず、誠司さんは箸を持っていた。テーブルに置かれているのは————カップ麺だ。私の視線に気がついたのか、誠司さんはますます決まりの悪い表情を浮かべる。 「その、なにか食べたくなっちゃって」 「あ……」 「……繭ちゃん、里穂子には、黙っててもらっても……いい? 夜食にうるさいんだ、体に良くないって」  慌てて頷く。  お喋りが好きらしい里穂子さんとは反対に、誠司さんは言葉が少ない人だ。普段も、里穂子さんが話して、誠司さんと私が返事をする、というのが多い。だからそういう意味でも、誠司さんと二人きりの今は、私も少し気まずい。  それでも、その場を立ち去るのに躊躇してしまった。  部屋の中に漂う匂い。テーブルの上のカップ麺。唾の量が増える。……お腹が、空いた。 「あっ」  誠司さんが声を漏らした。 「……繭ちゃんも、食べる?」  大きな音を立てて里穂子さんを起こしてはいけないので、時計を眺めて三分を測る。その間に誠司さんはカップ麺をひとつ食べ終えて、少し悩むような仕草の後、ふたつめにお湯を注いだ。  夕飯もたくさん食べていたのに。私が驚いた顔をしたからか、誠司さんは照れくさそうに教えてくれる。 「ご飯の後、ゲームやってるんだ。面白いんだけど、エネルギー使うのかな、毎回お腹空いちゃって。だからカップ麺、いつも何個かストックしてあるんだよ」 「ゲーム……」 「繭ちゃんは、やる? ゲーム」  首を横に振る。そもそもゲーム機を買ってもらったことがない。 「そっか。今度、よければリビングに持ってくるよ。お友達とやってもいいし……」  「ありがとうございます」と返すけれど、友達をこの家に連れてくるというのが、いまいち想像できなかった。  少し、後悔する。やっぱり私は、この場を立ち去るべきだったんじゃないだろうか。いつもよりずっと饒舌な誠司さんは、きっと私に気を遣っている。  でも、お腹が空いて…… 「繭ちゃん」  誠司さんが、ふいに声のトーンを落とした。 「言いたくなかったら、言わなくていいんだけど。繭ちゃんのお母さんって……」  思わず、びくりと肩を震わせてしまう。誠司さんはいつもと変わらない、穏やかな表情を浮かべている。 「……どんな人だったの?」  どんな。  そんなことを聞かれるのは初めてで、言葉に詰まる。母の話に触れる時、「大変だったね」「辛かったね」と声をかけてくれる人はいたけれど、どんな人だったか、なんて。玄関から出ていく彼女の背中が思い浮かぶ。  どんな人。  私の母は、どんな人だったんだろう。  綺麗な人。滅多に怒らない人。方向音痴で、少し抜けているところがあって、メイクが上手だった。笑っている時もあれば、泣いている時もあって、彼女のことをいちばんよく知っているのは私だと思っていたのに、今はもう自信がない。私と一緒にいる時、母は何を感じ、何を考えていたのだろう。 「ごめん、やっぱりいいや。そろそろ三分経つんじゃない?」  誠司さんの声で我に返る。促されるまま、私はカップ麺の蓋をめくった。途端、湯気と、いい匂いが溢れ出す。  母がいない日々を、私はこの匂いと過ごしていた。あの頃と違うのは、隣に誠司さんがいることだ。  私は箸を握ったまま、恐る恐る口を開いた。 「お母さんが……」  私のお母さん。  私を置いていった人。 「たくさん、買っていってくれたんです。いなくなっちゃう前に。カップ麺」  テーブルの上のビニール袋を指差した時、彼女は私のことを、愛してくれていたのだろうか。 「……そういう人でした」  誠司さんの問いに対する答えには、なっていなかったかもしれない。でも誠司さんは「そっか」と頷いてくれて、それ以上は何も言わなかった。  私はそっと麺を掬い上げ、ずる、とすすった。美味しい。すごく。やっと満たされていく感じがする。  そうしてやっと気がついた。私はただお腹が空いていたのではなく、この味を求めていたのだと。  せき立てられるように食べ進める私の横で、誠司さんの箸の動きはゆっくりだ。もしかすると、誠司さんは、もうとっくにお腹がいっぱいなのかもしれない。それでも、私の隣にいる理由を作ってくれた。二人きりの沈黙を、初めて心地良いものに感じる。  視界が僅かに滲み、私は慌てて、箸を持つのとは逆の手で目を擦った。誠司さんがこちらを見たので、とっさに笑い返す。 「……美味しいけど、里穂子さんのご飯のほうが、美味しい」 「それはね」誠司さんは真剣に、少し得意げな調子で言った。「当たり前だよ」  初めて会った時から、私は里穂子さんと誠司さんが好きになった。二人が決して、母のことを悪く言わなかったからだ。私にはどうしても、憎しみだけで彼女を語ることができない。母にとって、私がどういう存在だったとしても。  きっとこの先も、それは変わらないのだろう。どうしようもなくお腹が空く日が必ずやってくる。でもそのことを、今の私は、それほど不安には感じなかった。  
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