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我が家の食卓にハンバーグが並ぶのは初めてだった。
いや、この表現は誤解を招くかもしれない。私が、食卓に並ぶハンバーグを見るのが初めてなのであって、この家のメニューとして出てくるのは、決して初めてではないのだと思う。
「いただきます」
誠司さんが手を合わせる。私もそれに倣って、「いただきます」を口にした。里穂子さんがニコニコと笑う。
「おかわりもあるからね」
「ありがとうございます」
里穂子さんはどんな時も、食事を多めに作ってくれる。「もっと食べたい時に食べられないのは悲しいし、余ったら明日のお弁当に入れればいいでしょ」とのことだ。
ほかほかと湯気の立つハンバーグを口に運ぶ。口の中でお肉がほどけていった。美味しい。ファミレスのそれより、ずっと。
「美味しいです。すごく」
私の素直な感想に、里穂子さんは一層笑顔になる。「おかわりもあるよ」と念を押すように言う。「おかわりするには早いんじゃないか」誠司さんが肩を竦める。私は急いで箸を動かした。ちょっとでも手を休めると、この温かい食事が消えて無くなってしまうような気がしたからだ。そんなはずはないとわかっていても。
お腹が空いている。
◇
深山夫妻に引き取ってもらったのは、つい最近のことだ。この家に私が住所を移すまで、いろいろな手続きがあったらしいけれど、実を言うと私自身はその詳細をよくわかっていない。ただ、いろんな人が力を尽くしてくれたおかげで、自分が今ここにいるんだということは理解している。
里穂子さんも、誠司さんも、とても優しい。
初めて顔を合わせた時から、私は二人のことが好きになった。この家に、できるだけ長くいさせてもらえたらいいな、と思う。
でもなんだか、あまり上手くやれている気がしない。
たとえばさっきみたいな食事の時だって、どんな表情で、どんな話をすればいいのか、よくわからないのだ。そうやって勝手に気まずい思いをしている。母と二人で暮らしていた時は、どんなふうに過ごしていたんだっけ。
そんなことを考えていたせいか、夜、久しぶりに母の夢を見た。
「お母さん、どっか行くの」
「うん」
玄関に立つ母は、小さな鞄をひとつだけ抱えている。既に日は落ちていて、これから出かけるには随分と遅い時間帯だった。
「ご飯買っといたから、それ食べてね」思い出したように言って、母はテーブルの上を指差す。カップ麺がいっぱいに詰まった大きなビニール袋。「じゃあね」
「うん」
アパートの小さな部屋を出ていく母の足取りは軽く、背筋はピンと伸びている。
これが彼女を見た最後。
と言っても、別に死んでしまったとか、そういうわけじゃない。母は出て行って、帰ってこなかった。それだけの話だ。誰かが教えてくれた話によると、今は仲の良い男の人と、遠くで一緒に暮らしているのだという。
一方それからの私の日々は、特に何もない繰り返し。テレビを観て、お腹が空いたら、母が買ってくれたカップ麺を食べる。少し前、小学校の担任の先生と揉めた母が「もう行っちゃだめ」と言ったので、あの時期は学校にも行かなかった。
二週間ほどが過ぎた頃だろうか。インターホンが鳴って、母ではなく、私の名前を呼ばれたので、扉を開けた。そこには役所の人間だと名乗る人が立っていて、母のことをいくつか質問されて、その後は……。
さらに記憶を辿ろうとしたところで、目が覚める。サイドテーブルの明かりを点けてみると、夜の12時を過ぎたところだ。私は自分のお腹をさすった。自然とため息が出る。
……お腹が空いた。
里穂子さんのご飯、ちゃんと食べているのに。
悩みごとはいくつかあるけれど、今、私がいちばん困っているのは、頻繁に襲いかかってくるこの空腹感だ。どれだけ食べても、食べても、どうしてか満たされない。固く目を閉じて、ベッドの中でじっとしてみるものの、それはどんどん酷くなっていく。
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