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お茶漬け
その日の夕食は、あずきと火志磨の二人だけだった。火志磨の恋人であずきの親友でもであるカチューシャはと言うと、知人主催のパーティに招待されて夕方からそれなりにめかし込んで外出していた。火志磨に手伝ってもらいながら作ったのは豚肉の生姜焼き。恋人が美味しそうに食べ進めてはおかわりする様子に、作り手の喜びを感じながらあずきも箸を進めた。満腹になったところで順番に入浴して、リビングで寛ごうとしていたところだった。
「なあ、ゲームやんねえか?」
「そうね、じゃあ私は飲み物を準備してくるから」
揃ってソファから立ち上がった時だった。
――玄関から、物音がした。
瞬間、二人の間に緊張が走る。火志磨の眼が据わった。カチューシャからはあらかじめ帰宅時間は聞いていて、その時間にはまだ至っていない。しかもその時間も早ければその頃という目安で、もし帰ってこないようだったら先に寝ていてと言われていた。
二人は視線を合わせて、息を殺して耳を澄ませる。それから少しずつ、緊張を緩めた。
鍵を開ける音はガチャガチャとした乱暴なモノではない。主人に似て見知らぬ気配に敏感な愛犬が吠える様子もない。むしろ豊かな尾を振って玄関へ向かおうとしていた。
あずきはキヨの後を追う。玄関から上がって廊下に立ち尽くしていたのは、まだパーティ会場にいるはずのカチューシャだった。
様子がおかしい事に、直ぐに気付いた。普段であれば、彼女は「タダイマ!」と明るく声を上げて、飛びついてキスしてくるのに。それが今は強張っていて、美しい口元を真一文字に閉じて立ち尽くしている。
「カチューシャちゃん、お帰りなさい。早かったのね」
ずいぶんと早く帰宅した事、何より彼女の表情から何かあったのだと察したあずきは、普段より一層柔らかく声を掛ける。
「……ただいま」
足元に近寄ってきたキヨを一撫でする。それからあずきに応えると、長々と息をついた。
「……あずきくん……」
酷く弱々しい声で名を呼ぶと、カチューシャは小柄な親友を抱きしめる。肩口に顔を埋めて、そのまま動かなくなった。これは確実に何かあったと見ながら、あずきは丸めた背中へ手を伸ばす。あやすように撫でて、彼女の感情を落ち着かせる事に努める。
「このままだとつらいから、リビングのソファに行こう」
抱きしめてくる力が少し弱まったのをみて、あずきは優しく促す。するとカチューシャはゆっくりと顔を上げて、あずきの衣服は掴んだままに歩き出した。
「おけーり」
壁により掛かって成り行きを見守っていた火志磨がそう声をかけるも、カチューシャは力なく頷くだけ。一体何があったのだろうかと、あずきはカチューシャをソファまで連れて行く。彼女を座らせると手を伸ばしてきて、引き寄せられる。あずきはされるがまま、また抱きしめられた。
不意に、何かが唸るような音がした。どう聞いてもそれは空腹時によく聞く音。あずきと火志磨は一緒に食事を摂っている。
「カチューシャちゃん、何も食べてないの?」
音を鳴らしたのは消去法でカチューシャしかいない。驚いたあずきが尋ねると、親友は小さく頷いた。
「……食べられなかったんだ」
はあとカチューシャはため息交じりに口を開いた。
「今日のパーティ、主催が知り合いだったはずだったんだけど……どうも、騙されたみたいで」
「え……!」
「本来の主催も知っていたよ、名前だけね。でもそんな経緯だから、怪しくて仕方なくて……料理は味が濃そうな物ばかり並んでて、熱心に勧められたよ」
話を聞いていた二人は小さく息を飲む。母国が二つある彼女は、どちらでも元女優で現在は辣腕の女社長と持て囃されている。それに似合う資産や人間関係、魅力が備わっている。見る人から見れば、喉から手が出る程に欲しいだろう――特に身内になりさえすればそれが手に入る。
様々な負の感情に苛まれているだろうカチューシャを、あずきは自らの胸の中へかき抱く。肩越しに恋人と目が合う。火志磨はバスルームの方を指さして、蛇口を捻るような仕草をした。頷けば彼は静かに立ち上がって、リビングから出て行く。
あずきはゆっくりと体勢を変えて、ソファの上へ寝そべる。自分の躰の上へ黙りこくってしまったカチューシャを乗せて、背中を静かに撫で続けた。
しばらくして火志磨がドアから顔を覗かせて、あずきへ視線を送ってきた。
「カチューシャちゃん、お風呂入っておいで。シャワーじゃなくって湯船に浸かってね。その間に夜食準備しておくから」
「――うん」
ノロノロと起き上がったカチューシャは、気持ちを切り替えようと一度胸を大きく上下させて深呼吸する。
「Спасибо……」
そう声を掛けてカチューシャは、火志磨と入れ違いになる形でリビングを出て行った。それを見送ったあずきもソファから離れて、キッチンへ移動する。火志磨もその後をついて行って、ダイニングテーブルに座った。
冷蔵庫を開けて、何が出来るだろうかと物色する。彼女が入浴を終えるまでに出来上がる料理で、かつ重くない物がいいだろう。そう考えながら、冷蔵庫の中へ手を伸ばす。
「うーん……これとこれかしら」
用意したのは、昨日焼いた鮭をほぐしておいた物。イクラの瓶詰めに長ネギ。冷凍庫からは小分けしてあるご飯。カチコチに固まったご飯は電子レンジに入れて、ボタンを押した。ケトルに水を多めに汲んで、火にかけた。
「何か飲む? 私はお茶を淹れようと思うけど……」
先ほどから手元に視線を感じていたあずきは、背中を向けたまま火志磨に声を掛ける。
「んー……」
だが彼は返事にならない声を返してきた。視線は未だに手元へ注がれていた。ハテとあずきは首を傾げて――もしかしてと振り返った。
「……夜食、食べたいの?」
今度は明確な深い頷きが直ぐに帰ってきた。温まったご飯を深めの皿へ盛り付ける。夕食を既に食べている火志磨の分は、当然ながら少なめにした。その上にほぐした焼き鮭と刻んだネギを散らしていく。沸かしたお湯の三分の一は粉末出汁を溶いて、ご飯と具材が入った皿へ注ぐ。残ったお湯は少し冷まして、緑茶専用にしているポットへ茶葉と共に入れた。
マグカップを一つ、グラスを二つ用意してテーブルに並べる。夜食を食べる二人にはミネラルウォーターを、それから木製のスプーンとイクラを取り分ける用のスプーン。日本食に魅了されたロシア美女は、すっかり箸の使い方にも慣れている。けれどこの夜食では少し難しいだろうと判断して、レンゲのような形をした木製スプーンを二人に用意した。
最後に完成間近の料理とイクラの瓶詰めをテーブルへ並べれば、ちょうど良いタイミングでカチューシャがやってきた。仕上げにポットからご飯と具材の上へ緑茶を注ぐ。透き通った緑色が、器を満たしていった。
「はい、出来上がり。お好みでイクラをトッピングしてね」
お茶漬け。日本では定番の夜食。
あずきもカチューシャの対面に座ると、残ったお茶をマグカップへ注ぐ。カチューシャと火志磨はそれぞれ手を合わせて、スプーンを手にする。二人共、最初はイクラをトッピングせずにそのまま食べ始めた。
少なめにご飯と具材をスプーンで掬ったカチューシャは、息を吹きかけて冷ましてから口の中に運ぶ。しっかり咀嚼して飲み込むと、ホウと息をついた。口元が緩み、ガーネットの瞳に光が戻っていく。食欲が刺激されたのだろう、次の一口はスプーンいっぱいにお茶漬けを掬っていた。その様子に対面で見守っていたあずきも、内心ホッとしていた。
「うま……っ! さらさら入るな、これ」
カチューシャの隣では既に夕食の豚肉の生姜焼きをお腹いっぱいに食べたはずの火志磨が、夕食時と変わらぬ勢いでスプーンを動かしている。
「もしかしてお出汁も入ってる?」
「そう。これは冷蔵庫にあった物で作ったけど、お刺身の余りとか、梅干しとか鶏ささみとかでも美味しいのよ」
「うん、温まるしいいね! イクラ追加してみようかな」
「俺も!」
口元の緩みが次第に頬や目元、雰囲気まで広がっていく。皿の中身を空っぽにした時には、すっかり親友は落ち着いていて、表情から険しさが無くなっていた。
「ごちそうさま」
挨拶した火志磨が食器類を手元に引き寄せる。
「俺が片付けておくから、先に二人で寝てろよ」
てきぱきと食器を重ねた火志磨は、席を立つと食器を持ってシンクへ向かう。すぐに水の流れる音が聞こえてきて、カチューシャとあずきは顔を見合わせて笑った。
「火志磨クン、Большое спасибо」
「ありがとね。ゲーム機、リビングに用意してから行くから。夜更かししちゃだめよ」
「おう」
茶髪から覗いた耳が、幽かに赤くなっている。そんな恋人の優しい心遣いを二人は嬉しく思いながら、感謝の言葉をかけたのだった。
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