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私雨(わたくしあめ)
一昨日、夫が七十歳の誕生日を迎えた。
私は明後日で彼に追い付くけれど、そこまで生きられるかはわからない。
私が余命宣告を受けたのは、今から一年と数ヶ月前。
その余命を数ヶ月越えたところで、そろそろ人生の終わりが見えてきた気がする。
「尚、体調はどうだ」
すっかり皺と白髪が増え、大好きな車を乗り回すこともなくなった隆二が、作ってくれたお粥を運んできてくれた。
私は窓辺に揺れる桜の蕾を見ながら微笑み、『明日にでもあの世に行けそうなくらい絶好調よ』とダークジョークで返せば、彼は今にも泣きそうな笑顔を浮かべる。
「尚、来月は千里の誕生日だな」
『千里』とは、私たちの長女だ。
「そうね」
「そのあとは、よっちゃんの運動会だ」
『よっちゃん』とは、私たちの孫で少し泣き虫のとても優しい男の子だ。
「楽しみね」
そう告げれば、彼は安堵したように目を細める。
でも、隆二も本当は気付いていた。
大きく咳き込む私の背中を、彼が皺の多いごつごつとした掌で優しく撫でる。
ここ最近は、ご飯を上手く食べられないのだ。
正確には、食べたくないしお腹が減らない。
こんな状況になった今、私は微塵も恐怖心がない。
若い頃は『死』というものが、とてつもなく怖かった。
でもそれは遥か遠くにある存在だったからで、今は隣にいる『死』という得体の知れた存在に身を託してしまいたくなる。
不思議なのは、世の中のほとんどの人が遥か先に見える『死』に対して恐怖心を覚えているのに、『愛』は近くにあるものより遠くにある得体の知れないものを欲してしまうこと。
今の私からしたら、『愛』の方がずっと複雑で恐ろしく感じる。
「…ねぇ、あなた」
「どうした?」
「…家族って何?」
これだけ一緒に時間を過ごしても、最後は離れ行く。
そして、永遠などないとわかっているのに永久に傍にいようとする。
「これは俺の持論だけど、『家族』とは心の繋がりがあるもの同士のコミュニティーで、絶対的な味方。それから愛情の最高頂点に属する存在」
「究極ね」
「そうだよ。俺たちは究極の愛だ」
「じゃぁ、…『愛情』って…何?」
これまで彼といて、私は『愛されている』と実感することも、『もう愛は冷められたのかもしれない』と不安に思うことも多々あった。
「…今日の君は哲学的だね」
「あら…、夫婦はいつだって…、哲学的よ」
笑って見せれば、彼の大きな掌が私の細くなった手を強く強く握りしめる。
「…俺が思うに、いなくなったら困る存在の人に対して、その人が消えてしまうと涙が止まらなくなることで、…一緒にいて楽しいとか、嬉しいとかより、一緒にいないと、隣にいないと寂しいのが愛だ。そして…」
自分の頬を一粒の命が伝う。
「…そして、最期の時まで、…愛を伝え続けたい。俺は君と一緒になれて本当に良かった。若い頃は寂しい想いばかりさせて本当にごめん。今頃になって取り返すように一緒にいたけど、後悔は残ってる。…でも、俺は必ず約束を守り続けるよ。っ…、それが俺に出来る最大限の愛情表現だから」
私の目蓋はいつの間にか重たくなってきて、彼の言葉が横で小さく響き続けている。
「…約束…、ありがとう…」
絞り出した声が彼に届いた時、私の目蓋はゆっくりと幕を下ろした。
その時、確かに私の身体に温かい雨が降り注いだ。
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