氷雨(ひさめ)

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氷雨(ひさめ)

 彼から離婚届を渡されないまま、二週間が過ぎた。  相変わらず私たちは、多くの会話は交わさない。挨拶と業務連絡だけの二人だけのシェアハウスだ。  そして彼は、今でも何も言わずに遊びに出掛け、仲間たちと夜中まで道路を走りまくる。  それは今日も同じだった。  雨が降る夕方に、楽しげに出掛けていった。  ただ、いつもと違ったのは、次の日の朝になっても彼が帰ってこなかったこと。  駐車場を確認しても車は停まっていなくて、すぐに電話を掛けたけれど彼には繋がらなかった。  その数分後、スマホの画面に見慣れない番号が表記された。 「…はい、荻野(おぎの)です」 『荻野尚さんのお電話でお間違いないでしょうか』 「そうです」 『私、都立高田病院の医師の岩田と申します。旦那様の隆二さんですが、今朝方車ごと池に転落していたところを発見されました。救急隊が駆けつけた時には既に心肺停止の状態で、救命措置を行いまいしたが残念ながら…』  その後の医師の言葉をよく覚えていない。  どうやら非日常の出来事が起こると、テレビのように泣きわめくことはないらしい。  ただ、その場に崩れ落ちて立てなくなるのは本当だった。  そんなことを考えていれば、義理の母から連絡が入った。  これからやらなければならないことがたくさんあることに、思わずため息が溢れる。  まずは通夜と葬儀の準備、それから遺品整理。後は…    指折り業務を数えてみれば、左手の指輪が光ったように見えた。  この指輪は私が買ったものだ。  なぜなら、彼は貯金がほとんどなくて指輪を買えなかったから。  だから、互いに自分で自分の指輪を買い揃えたのだ。  本当は彼に買って欲しかった。もっと欲を言えば、大きなダイヤの着いたエンゲージリングも欲しかった。それからもっともっと欲を言えば、家族だけの小さな式ではなくて、友人や親族を招いた大きな挙式と披露宴がしたかった。  でも、それを言うことは私には出来なくて、いつも良い子ぶって、自分の考えを飲み込んできていた。彼は主張が出来たけれど、私はいつも自分に自信がなかった。  こんな風に彼と私はタイプが違う。  この先一緒にいたら、いつかは『二人で良かった』と笑い合える日が来たのだろうか。    今日から彼はこの世界にも、誰かの世界にも、私の世界にも存在しなくなる。  頭ではわかっていても、残念ながら実感が沸かない。  その中で私は、真新しい二人用の見えない傘を、小さく畳んだ。    これはもう、必要ない。  
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