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なんだそれ、と思いながらも誠はグラスを合わせた。ガラスのぶつかり合う澄んだ音は、たちまちフロアの狂騒にかき消されてしまう。天音はグラスの中身がなにかもろくに確かめないまま、一気に呷る。
会社にいる時とは違って、天音はよく喋った。誠は心配になるほどのペースで酒を飲み、誠の言葉少なな話にさも楽しそうに聞き入り、店で出会った不思議な客や、同僚のホストのことを面白おかしく話してくれる。天音と話しているうちに、誠は自分の心がだんだんと解れていくのを感じた。
だが、最初に天音を見た時の苛立ちはいまだ心の奥底でくすぶっている。なにかきっかけがあった瞬間、それは耐えきれずに爆発してしまいそうなほどだった。
店を去るタイミングを逃し、ずるずると閉店間際まで居続けてしまった。そろそろラストオーダーの時間だ。
黒と白、そして差し色の赤。洗練された店内で、天音の美しい横顔がきらびやかな照明に照らされている。
やっぱり信じられなかった。これがあの、いつもなにを考えているのかよくわからない陰鬱な顔をした和泉周と同一人物だって?
天音はこちらを向くと、嘲るような笑みを見せた。
「どうします? 先輩」
忘れかけていた怒りが、ふっと腹の底に戻ってくる。なにが先輩だよ。会社では一度もそんなふうに呼んだことなどなかったくせに。会社では、俺のことを避けているくせに。
アルコールで上気した頬をゆるませて、天音が手を伸ばす。肩に置かれた手をなぜか振り払うこともできず、誠はまっすぐに彼を見つめ返した。
「先輩がもうすこし頑張ってくれたら、今夜のラストソングは僕のものになるんですけど」
こんなふうに煽られて、女は彼に金を使うのだろう。首を振り、肩に置かれたひんやりとした手を振り払う。
「お前に貢ぐつもりはない」
「僕に会いにここまで来たのに?」
くつくつと、喉の奥で笑う声がした。
図星だ。誠は天音と――周と会話をするためにここまでやってきた。酔いが覚め、幾分かひんやりしてきた誠の顔を天音がじっと見つめる。すべてを飲み込んでしまいそうなほど、真っ黒な瞳。漆黒の闇の中に、間抜けな自分の顔が映り込んでいる。
「先輩が好きなのはどっちですか? ホストとして生きる天音? それとも……冴えない営業社員の和泉周?」
誠は怒りを忘れ、呆けてしまった。
「俺が、お前のことを好きだって?」
天音の瞳にいたずらっ子のような好奇心にも似た光がきらめく。主人の命令を待つ番犬のように、忠実に誠の言葉を待っている。
「まさか。俺がお前のことを好きなんてことは――」
「会社では話せないから、わざわざ店にまで来たんでしょ? 僕と話したくて、僕に会いたくて。ちがいますか?」
「……っ」
フロアの喧騒が遠く聞こえる。隣にいる天音から香ってくる、甘い石鹸のような香りにやけに心が乱される。
そんなはずはない。自分に限って、同性を好きになるなんて。天音のことを、和泉周のことを好いているだなんて。
膝の上に置かれた誠の手に、するりと熱い手のひらが絡みついた。天音が酒臭い息を吐いて、誠に囁く。
「先輩なら特別に、シャンパン一本入れてくれたらアフターしますよ?」
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