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※第10話
七万円のシャンパンを開けた。たった一人の、男のために。
誠は自分の判断が誤っているのではないかと何度も思った。けれど、事実として自分は七万円を払った。No.1ホストの天音に。冴えない部下の和泉周に。
誠の払ったお金は巡り巡って、周の妹が大学へ進学するための学費になる。不思議な気持ちだ。財布は痛んだが、気分は悪くない。世の中のホストクラブにハマる女性もこんな気持ちなんだろうか。自分の好きな人間を応援するために、大金を払って、好きな人間から感謝されて。
もう、少しも自分の気持ちなどわかるはずもなかった。ただ流されるようにして、高級なシャンパンを呷った。天音も自分の隣でシャンパンを飲み、伸びやかな声で歌った。すべてのホストの憧れ、ラストソングを。
閉店後に店の裏で落ち合った時には、酔いも夢も醒めていた。店を出たら、天音は周に戻る。ワックスでセンター分けにされていた前髪はいつものボサボサに戻っているし、闇が澱のように重なった瞳は厚い前髪と黒縁眼鏡で覆われている。酒の呑み過ぎなのか、街灯の色のせいなのか、顔色は病人のように青白い。
奇妙な心地がした。ホストとしての天音も、ただの会社員としての周も、どちらの顔も知っているのは自分だけなのだという、異常な優越感。この感情が、自分が彼に好意を寄せている証拠なのか、と問われればなんとも言えない。
ただ自分は知りたかった。もっと知りたいと思った。天音のことも、周のことも。
「どこに行くんだ?」
誠はさっさと背中を向けた周に声をかけた。アフターとは、閉店後にホストと客が行動を共にすることらしい。つまり、客は閉店後のホストを独り占めできるというわけだ。天音ほどの人気ホストなら、引く手あまただろう。先ほども、別の客の誘いを断っているところを誠は目にしている。「シャンパンを開けてくれたら考える」という天音の軽やかで残酷な響きを、誠は聞き逃さなかった。
周は重心の置き場所を失った人形のようにふらりとした動作で振り向いた。いつものスーツに身を包み、濁った目をしている様子はさながら長時間の残業を終えたばかりのサラリーマンのようである。
「俺の家。ここから歩いて十五分もかからないんですよ」
とっくに終電の時間は過ぎている。てっきりこの前のように牛丼屋にでも行くのだと思っていた誠は、しばし驚きで言葉を失った。
「嫌ですか?」
覚束ない足取りで近づいてきた周が、心配を滲ませて尋ねる。これが異性の家なら尻込みするところだが、幸いというべきか周は同性だ。終電がなくなったいま、誠が家に帰るにはタクシーを拾わなければならなかったし、始発までの時間を彼の家で潰させてもらうのも悪くないだろう。なにせ、七万円のシャンパンを開けた後だ。余計な出費は控えたい。
「いや、構わないよ」
「良かった」
周は唇を歪めた。それが笑みだと気づくのに、誠はややしばらくかかった。
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