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誠はぐぐっと背を反らして伸びをすると、椅子から立ち上がった。目指すは周のデスクである。どんよりとした雰囲気や、周囲を敬遠している様子から避けてきたが、一度くらいしっかり話してみてもいいだろう。部下のことを気にかけ、業務の効率を上げるのも立派な上司としての仕事である。
「和泉、ちょっといいか」
誠は周のデスクに近づきながら、極力柔らかい声でそう問いかけた。ボサボサの黒髪に覆われた瞳が、ゆったりと持ち上がって誠を見やる。その視線の胡乱さに、誠は一瞬怯んだ。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。前髪と黒縁眼鏡で隠れた周の目を覗き込むようにして、誠は言葉を紡ぐ。
「これから一緒に飯に行かないか? もちろん、俺が奢るよ」
誠の誘いに、周はすこしだけ考え込むように、視線を伏せた。伏し目がちになると髪の毛で隠れている目がなおさら見えなくなり、どんな感情も読み取れない。
迷惑だと思われただろうか? それとも、怖がらせたか?
普段あまり接点のない上司から急に食事に誘われたら、誰だって自分がなにかしでかしたのではないかと怯えるはずだ。誠は努めて威圧的にならないようにしたつもりだが、部下の立場からすればどう思ったかは定かではない。
「……俺で、良ければ」
周は自分の手元に視線を落としながら、ぽつりと呟いた。あまりの覇気のなさに、誠は膝から力が抜けるようだった。とてもじゃないが、周が本心から誠と食事に行きたがっているとは到底思えないような沈んだ声色だ。
それでも誠が促すより早く、周は自ら席を立った。誠が奢ると言ったが、手にはしっかりと財布が握られている。
「悪いな、付き合わせて」
「いえ……」
見た目に反せず、周は言葉少なに誠の後ろをついてきた。二人でエレベーターに乗り込む頃には、誠は思いつきで周を食事に誘ったことを後悔していた。思った以上に、周との会話が続かなかったのである。なにを聞いても「はい」か「いいえ」でしか答えないロボットのように、彼の回答は聞いているこちらの気力まで奪うほど明朗でいて、それなのに暗く、警戒心たっぷりで、他者との距離を決して縮めようとしない野生動物のようだった。
ここまで来て、いまさらやっぱりなしで、と言うわけにもいかない。周が喋らない分、誠は必死に頭を絞って話題を提供し続けた。飯にありつく前に、気力がすべて削がれるのではないか、と本気で心配したくらいだった。
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