そんなことする人ではなかった

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「鳳くん、例の契約会社とのミーティングの件、どうなった?」  日々の業務に追われながら過ごしていると時間の流れはとても早く感じた。 あれからもう一年。再来週には、後輩がこの部署にやってくる。 「すみません。先方がミーティング時間を確保するのに手間取っているようで。まだ具体的な時間は確定できておりません」 「そう。最後に先方にメール送ったのはいつ?」 「先々週になります」 「何やってるんだよ!」  富岡さんの怒号が部署内に響き渡る。不幸にも、彼よりも上の社員は出かけているため、彼の憤怒を止める者はいなかった。 「ちゃんとこまめにメール送らないと。向こうが返信くれるのを待ってたら、いつまで経っても進まないよ」 「すみません」 「もう一年経つんだから、そんな初歩的なことで怒らせないでよ。それに再来週から君は先輩になるんだよ。そんな不甲斐ない姿を振る舞っていたら、後輩に舐められるよ」  僕はただ頭を下げることしかできなかった。下手に口出ししてしまえば、富岡さんの怒りを増幅させる。ここは黙って謝るしかない。 「俺もさ、こんなことで君に怒りたくないんだよ。でもさ、俺ももうそろそろこの部署を異動しなきゃならないんだ」 「富岡さん、異動するんですか?」  思わぬ彼の言動に、思わず同じ言葉を繰り返して尋ねてしまう。少し声が明るくなってしまったが、富岡さんは気づくことなく照れたような表情を見せる。 「まあね。課長が俺を見込んでくれて、別部署で課長として働くことになった。いわゆる昇進ってやつさ。そういうわけで、新入社員が配属される時期と同時に俺も異動する。それまでに君をどうにかして育てないといけないんだ。俺が残したものが負の遺産にならないようにね」 「そうですか……おめでとうございます」 「ありがとう。せいぜい僕の背中を見て君も頑張ってくれ。それじゃあ、先方へのメールは忘れずに」  富岡さんはそう言うと、僕に興味をなくして自分のパソコンに体を向けた。僕は一礼して自分の席へと戻っていく。  なんだか変な気分だった。富岡さんの異動を喜ぶべきか、彼が言った僕への罵倒に悲しむべきか。一つだけ確かなことは憤怒を抱えた人間でも昇進できると言う事実に驚いていることだ。富岡さんは一生平社員だと思っていた自分がなんだか馬鹿に思えてきた。  その日の仕事はあまり身が入らなかった。言われたとおり送った先方へのメールは今日中には返ってこなかった。向こうの会社は怠惰だなと思った。憤怒でも怠惰でも社会で通用してしまっている事実に、何だか呆れて物も言えなかった。  退社して、誰もいない寂しい自宅マンションに帰る。風呂に入り、昨日の鍋の残りを食べるとスマホ片手にテレビを視聴する。たまたま点けたチャンネルでは若き実業家たちの特集がやっていた。 「では、続いての方です」  司会を務める女性芸能人がそう言うと、VTRが流れる。場所は渋谷。高層ビルの二十四階にその会社はあると言う。現場に訪れたタレントが事務所に入ると、今風なカジュアルな事務所が目の前に現れる。僕のいる平成の事務所とは大違いだった。  タレントが奥の方まで歩いていくと一人の男が立ち上がった。僕はその人物を見て、片目程度に見ていたテレビを注視する。 「あなたがこの会社の社長ですか?」 「はい、私が株式会社ビギニング代表の綾野 亮大です」  綾野 亮大。名前を聞いて、頭の中にあった顔と彼が一つに結びつく。高校二年生の時、僕の隣にいた生徒だ。毎回の考査で藤浪くんに負けて、その度に嫉妬の鋭い目を向けていた彼がまさかテレビに出られるほど大物になっていたとは。  綾野くんは大学時代から企業をしており、時間経過で投稿が消えるSNSを開発し、それが功を奏して現在は年商2億の会社へと成長したらしい。 「今と昔の自分って全く別の存在だと思うんです。一時の気の迷いで書いた投稿が随分後になって炎上の元になるのって嫌じゃないですか。『昔のあいつは何々だった』って言われても今は更生して真面目にやってるんだから良いじゃないかって思うんです。みんな、他人の悪い時期ばかりに目を向けたがるので、そう言うのは消し去ってしまおうと言うことで作りました」  タレントのインタビューを受け、アプリを作った時の思いを口にする。  彼自身も嫉妬でSNSに悪口を書いており、それが発覚してクラスで大問題になったことがあった。そう言った経緯がアプリ開発のヒントになったのだろう。 「年商2億か……すごいな……」  テレビを見ながら独り言を呟く。平社員の僕には年商という言葉を考える余地もない。せいぜい考えるのは昇給くらいで、今の僕は一般よりも少し高いだけで自慢できるような額ではない。  そういえば。  不意にあることに閃き、持っていたスマホでブラウザを開いて文字を打つ。 『藤浪圭吾』と検索タグに書き込んで検索ボタンを押した。出てきた記事には特に目立ったものはなかった。有名SNSのアカウント名がヒットしたくらいだ。  高校時代争っていた二人は社会に出てから綾野くんに軍配が上がったようだ。嫉妬を抱えていた彼が社会に出てから成功した。ここ最近、自分の中で何かが崩れていくのを感じる。自分が信念を持ってやってきたことが本当に正しいことなのか分からなくなってきた。  どうして強欲な人間が富と名誉を得たのか。どうして怠惰な人間が個展を開けるくらい有名になれたのか。どうして傲慢な人間が一流企業に就職できたのか。どうして憤怒な人間が昇進できたのか。どうして嫉妬する人間が起業で成功することができたのか。  どうして美徳に努めるよう生きてきた僕がただの凡人であるのだろうか。 「僕も悪徳に手を伸ばした方が良いのかな?」  視線はスマホとテレビから離れ、冷蔵庫へと向く。ストレスが溜まった時は食べるのが一番。二十代でしかたくさん食べることはできない。山中くんの言葉が脳裏を駆け巡る。  暴食するくらいなら誰も傷つけないからいいか。そう思ったところで、すでに体は冷蔵庫に行こうとしていた。  その日、僕は冷蔵庫を空にするくらいたくさんの食べ物を食べた。山中くんと同じで、ストレスが溜まっている今はよく食べることができた。
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