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 すべての人間に問いたい。  ストレスに直面したとき、最初に悶え傷つくのはいったい誰だろう。  答えは当然、自分だ。ぼくもそうだし、ぼく以外の人だってそうだと信じている。  傷ついたあとにすることは適応だ。絶望したり戦ったりして痛みを乗り越え、取り込み、成長する。  普通はそこでお終い。だがぼくは違かった。  ぼくには戦う力も知恵も気力もない。  だから、ストレスに対してはカメラのように対処する。  カメラでものを撮影するとき、一般的にピントは対象に合う。その代わり、対象の周囲はぼやけてしまう。周囲の世界は何層ものガラスが重ねられたように薄く、そして遠い「背景」となる。それは死と同じであるとぼくは思う。  カメラが背景を殺すように、ぼくは降りかかるあらゆる痛みを殺して生きてきた。  ころころと変わる父親、障子越しの母親の嬌声とリップ音、借金の取り立て、教室の囁き声。どれも生ごみの匂いがする思い出だが、同時にピントの外に置いてきたものでもある。  痛みを殺すといっても、逃げているわけではない。ぼくはストレスに対し逃げも隠れもせず、その目の前に立って()つ目を逸らす。直面するが対面しないというわけだ。  苦痛にモザイクをかけるコツは、待つことだ。別のなにかに焦点を当て、集中する。根気よく待つと、次第に世界の隅から融解していく。やがて中心だけが残り、ようやくぼくは安らぎを得る。  何年もそんなことをしていたからだろうか、ぼくは少々おかしな力を持ってしまった。  始まりは高校のクラスメイトが失踪した日。  その日から、おかしな力はぼくの人生を漫画のように変えてみせた。
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