名前のない書物

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神殿Ⅵ.    春を愛でるのが、こんなにも胸をふさぐことがあるのだと、わたしは初めて知ったのだった。  それは実際には春ではなく、冬の入り口に差しかかった時候のことだった。乾燥した冷たい東風が、ヤン河の水面を揺らし始めていた。  宿屋の娘マサリクは、このところ、いつも以上によく立ち働いていた。というのも、ナナルの件で傷を負ったモロクが、宿屋の離れを貸し与えられて養生にはげんでおり、マサリクは彼の世話を命じられているからだった。わたしはひそかに、マサリクに〈徵〉をつけ、娘の視点にもぐり込んでいた。  もとより神人には、寝起きをする部屋が神殿内あるが、間仕切りのない大部屋がひと間あるだけである。しかしモロクは大巫女の命を救った功労者であり、傷は名誉の負傷であった。怪我の後遺症は重篤で、一生片足をひきずる身となっていた。神殿はーーというよりゼフィールがーー特別に宿屋の離れをあてがい、そこで療養することを許したのは、いうまでもない。  マサリクの目の前にいるのは、寝椅子に腰かけた、小山のような体躯のモロクで、彼女は彼にかいがいしく給仕をしているのだった。モロクの顔色は一時期に比べてだいぶよくなり、マサリクの差し出す薄焼きのパンや、肉片の浮いたスープを美味そうに平らげている。そして時おり薄焼きパンをちぎっては、部屋の突き出し窓から、外へ放るのだった。  腰高の位置にある窓からは、宿屋の中庭が覗けた。雑草の生い茂る中庭には、巨大な爬虫類ーーアスカランテの騎獣ーーが繋がれている。儀式のあと神殿に献上されたそれが、さらにモロクに下賜されたのである。  モロクの面倒を見ることを依頼された宿屋は、はじめよい顔をしなかったが、騎獣目当ての見物客を当て込めると知ってからは、喜んでモロクの世話をするようになった。  今では騎獣はすっかりモロクに馴れ、こうして餌を与えると喉を鳴らして甘えるまでになった。そのさまを眺めるとマサリクは、ご自分が食べるのも忘れないでください、と微笑みながらも可愛く叱るのだった。  モロクがマサリクに向ける優しい眼差しぶつかるたびに、マサリクの心は春風に吹かれたような暖かい歓びに震える。そしてそれを感じるたびにわたしは、同様の暖かさと、こっそりと覗き見ている疚しさと、身の置き所のないもどかしさに苛まれるのだった。実のところ、モロク本人に〈徴〉を付けてみたい気持ちも、まだわたしにはあった。しかし先に上手く運ばなかった経験があるし、何よりわたしにだって慎みくらいはある。  モロクがときにマサリクの手を取って感謝を述べ、そなたの紺碧の瞳は美しいな、と本音とも世辞ともつかぬ科白を口にするたび、わたしは渋々だが自分の感情を認めずにはいられなかった。それは嫉妬であり、わたしはモロクに恋をしているのだった。 *  その日の晩、いつものようにゼフィールがわたしの私室を訪れた。このところ疲れを理由に奥殿にこもっていたわたしはーー本当は浅ましくもマサリクの眼を借りてモロクとの逢瀬にいそしんでいたのだがーー数日ぶりに顔をあわせたゼフィールにぎょっとなった。  妹の貌にははっきりと懊悩が刻まれていた。だがそれにもかかわらず妹の(はだえ)は、内側の光源から照らされているような、眩いばかりの美しさに耀いているのだった。わたしは震えるような予感を持って、妹に訊ねた。 「ゼフィール。あなたひょっとして……」  それきりわたしは、絶句してしまった。訊くも愚かな、あまりに明白なことだったからだ。妹は気息奄々といった様子で、わたしに告げたのだった。 「ゾラ。姉さん。私は大巫女失格よ。私、恋をしてしまったのーーモロクに」  これが、わたしたち姉妹の、そののちの変転の魁なのだった。 *  わたしたちは同じ日の同じ時刻に産まれた。そう、わたしたちは二卵性の双子だった。母は、わたしたちの父親がそれぞれどのような人間であったのかを、まるで見てきたように話してくれたものだ。それが医学的に正確なものだったのかは疑わしい。しかし自分の交わった男をすべて覚えている、とこともなげに話す母の言葉は、ほとんど厳かな託宣のように響くのだった。  母がみまかったときのことは、よく覚えている。  十年前の、大地を潤す恵みの雨が降りしきる日だった。そのころの母は、すでに神聖娼婦としての務めはしていなかったけれど、あいも変わらずただならぬ美しさをたたえていて、彼女が神殿の前に立つと、群衆の男からも女からも、ため息とも恍惚のうめきともつかない、賞賛が洩れるのだった。  母の美しさは、いわば生命の輝きそのものであり、またそれを母はあらゆる階層の、あらゆる人種の、あらゆる性別の人びとに等しく分け与えた。大地があらゆるいのちをはぐくみ、蔵するがごとく。母は誰のものでもなかったが、同時にすべての人の、神のものであった。情愛とは本来偏ったものであり、誰かを愛することは、その誰かを傷つける者を憎むことにつながる。人の身で総てを愛するというのはまやかしである。それができるということは、もはや人ではなく〈神の内〉にあるということなのだ。そのことで母が果たして苦しんだことがあったのか、それをたずねる機会は永遠に失われてしまった。しかし少なくとも妹は、ゼフィールは苦しんでいた。  もちろん、そんなことで妹を責めるつもりなど毛頭なかった。超然として、ほとんど神々の領域に足を踏み入れていたかのような母よりも、妹のほうがよほど人らしく、愛おしく感じる。だがそのことと、モロクをめぐるよしなしごとが消え去るのは同義ではない。むしろ、いっそうの懊悩がもたらされたのは言うまでもなかった。 *  そんなわたしたちの想いとは別に、わたしたちには果たさなければならない勤めがあった。ナナル事件の後始末である。神人殺しがナナルの犯行であることは間違いないと思われたが、ナナルが単なる私怨で動いていたとは思えなかった。いかなる意図で、あるいは誰の命で神殿にやって来て、大巫女の命を狙うなどという大それたはたらきをしでかしたのか、依然、明かになってはいなかった。とはいえ、わたしたち姉妹の間では、というより神殿の者たちの間では、ナナルを使嗾(しそう)していたのはマナン将軍その人であろうと、半ば公然とささやかれていた。そしてその企みは、まだ終わっていないだろうとも。  であるからその日、露払い役も寄越さずに将軍御自(おんみずか)らわずかな供廻りと〈ルナルの丘〉に出張って来たとて、神殿に緊張が奔ったのもむべなるかなであった。  このとき重なった(おどけ)芝居(しばい)めいた幾つものすれ違いが、偶然だったのか、それとも何者かの胸積もりどおりだったのかは分からない。あるいは、運命を司る神々の(さお)が織り成す、数奇な模様の一部であったのやも知れぬ。  いずれにせよそのとき、大神殿に居たのはわたしであり、ゼフィールは居館に戻っていた。ちょうど、立て続けに行われた公の儀式が一区切りついたところで、大巫女として表に出ずっぱりだった妹は、身体を休めるため居館に引き取っていたのである。  わたしはといえば、神殿の秘められた小部屋に引きこもっていた。〈大神殿〉には、外部の人間には知られていない抜け道や、隠し通路や、隠し部屋が無数にあった。長い年月を(けみ)するあいだ、迫害や戦乱や陰謀に見舞われたこの聖所は、このような隠微な空間を幾つも抱えているのだった。  わたしはその密やかな場所で、午前中いっぱいを使い、将軍の(はかりごと)(あかし)を掴む方途を、とっくりと思案していた。だがこれといった妙案が浮かばないまま、午後になって、気分を切り換えるためにある実験に移行した。  それはこれまでにない試みで、あらかじめ〈徴〉を着けておいた猛禽と砂漠狼を同時に使い、窺見(うかみ)として利用するというものだった。この先、本格的にアグラーヤが侵攻して来た際に、敵情を知る必要があろうと考えたからである。  人間に付けた〈徵〉が、基本的に〈ルナルの丘〉の神域内でしか機能しないことは、以前からわかっていた。  ところがある日、戯れに空を往く渡り鳥に〈徵〉を付けてみたら、〈ルナルの丘〉を飛び出しても渡り鳥の視点を共有することができたのだ。それからいろいろと試した結果、鳥や獣といった単純な精神の生き物ほど、遠距離まで繋がっていられることがわかってきた。ただし蟲や(うろくず)といった、あまりにも精神構造が異なる生物だと、逆に上手くいかない。〈徵〉を付けた生き物が認識した〈世界〉を、人間が理解できるように再構成するのに、手間がかかりすぎるかららしい。  猛禽と砂漠狼は、その意味では適任であったが、片方は空、もう片方は地上という二つの視点を同時に把握して操るのは、流石のわたしにも簡単ではなかった。しかしこの連携が首尾よくいけば、上空から状況を俯瞰しつつ地上の敵ーーとりわけ敵の大将首ーーを獲る手段になると、わたしは踏んでいた。  わたしは実験に集中するため、取次しないように申しつけていた。  そして、このときたまたま、マナン将軍の来訪に応対したのが警備隊長のサルマだったことが、運命の二つ目の別れ道となった。   *  将軍はサルマに向けて居丈高に、モロクを召し出すように命じた。彼の者には国家存亡に関わる重大な嫌疑がかかっており、将軍自らが詮議にやって来たのだと言うのである。その鼻持ちならない権高な物言いには、かつてサルマに醜態を見られたという反撥心も混じっていたのかもしれない。  〈大氾濫〉以来、モロクと友誼を深めていたサルマにしてみれば、将軍の言はまったくの誹謗中傷、言いがかりの類いにすぎなかった。鼻息荒く迫る将軍を謁見の間に通すと、サルマはマナンの元に向かった。このころ、傷がある程度癒えたマナンは、足を引きずりながらも、神人として任務に復帰していたのだ。  サルマが時間稼ぎにと、ひとまずマナンを隠そうとしたことも非難には当たらない。わたしでも、そうしただろう。  だがサルマは、神人の居室からモロクを連れ出すと、神殿内の、ある壁龕(へきがん)にある秘密の扉にモロクを押し込んだ。限られた者しか知らぬ隠し通路を、明かしてしまったのである。  ゼフィールのモロクに対する思慕の念は、いまだわたしと妹とのあいだで共有されているだけだった。ゼフィールは、表向きには心中を悟られないように苦心していた。ゆえに、あの洪水の日、モロクの処遇をめぐってゼフィールと対立したサルマには、モロクの身を隠してもらえるようゼフィールにうったえても、すげなく断られるだけに思えたろう。  二人は小暗い隠し通路を抜けーーある場所では将軍のいる謁見の間のすぐ裏側を通ったーー神殿の最奥部に達したのだった。  ぽっかりと口を開けた(あなぐら)の前でサルマは、マナンに言って聞かせた。 「ここは隠し通路の一番奥だ。これより先は、〈地下迷宮〉および〈大巫女の館〉の領域になる」 「これが世に聞く、〈地下迷宮〉の入り口なのだな……」  モロクが身を震わせた。勇敢な男であるが、流石に緊張は隠せない様子である。〈ルナルの丘〉の地下に、一度足を踏み入れたら二度と出られないと言われる暗がりがあることは、いつの頃からか公然と囁かれていたのだった。 「ああ、生き延びたければ、ここから動くな。もし仮に誰かが近づいて来て身を隠す必要に迫られたとしても、けっして入ることはゆるされない。ーー特に左の道は、絶対にまずい。〈迷宮〉に足を踏み入れたら、誰も助けられないぞ」  このときモロクの目が光ったのを、暗闇のサルマが見逃していたとしても、責めることはできない。  モロクの安全を確保したうえで引き返したサルマは、あらためて小部屋のわたしを訪れた。サルマの話を聞いたわたしは、直ちに将軍に会う心を固めた。  秘事をあかしたサルマをとがめるよりも、来訪自体が、渡りに船に思えたからである。これを機に、将軍の心底を見届けてやろう、とわたしは舌なめずりした。たとえ〈名もなき神々〉の力を使ってでも、本心を引きずり出してみせる。先だっての将軍の体たらくを浮かべてわたしは、自信満々といってよかった。  化粧をほどこし、装束をととのえたわたしは、サルマを引き連れて、謁見の間に向かった。隠し通路を使って直接、部屋におもむくことはできたが、あえて表に回った。マナンは愚か者ではない。隠し通路の存在が露顕する事態は、避けたかった。  大巫女の名代(みょうだい)を名乗り、謁見の間の出入り口に控えていたマナンの近習を、傲岸な微笑みで下がらせた。  わたしは上機嫌で、サルマとともに謁見の間に入った。  だがーー。  わたしたちは、その場に茫然と立ちすくすこととなった。  ぷん、と金気が臭った。  謁見の間の中央、五彩の敷き布のうえに、マナン将軍がうつ伏せに倒れていた。  飛散した血が描く模様の大きさから、事切れているのは明らかだった。
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