名前のない書物

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神殿Ⅰ.    母は玲瓏(れいろう)で強大な力の持ち主だった。母からわたしは〈力〉を、妹は〈美〉を受け継いだ。  このちょっとした、しかし決定的な産み分けは、必然として、わたしたち姉妹に役割分担をもたらした。すなわち、妹は神殿の前面に立ち、巡礼や民草や諸侯らに語りかける表の貌を受け持ち、わたしは神殿の奥津城(おくつき)にひそみ、神力をふるう裏の貌を受け持った。  だからといって誤解をしないで欲しいのだが、わたしたち二人は、とても仲のよい姉妹だった。我が身にのしかかる運命を、お互いをたった一人の血を分けた肉親として、支え合い、乗りきろうとしていた。  あのおとこに出会うまでは。   * 「未だーーご託宣はいただけませぬか、巫女どのよ」  将軍の声は、交合の名残をとどめてまだ幾分うわずっていたが、存外にはっきりとしたものだった。  わたしは内心舌を巻いた。部屋に立ち込める甘い薫香には、心を混濁させる秘密の配合がしこまれている。幼少期より馴らされたわたしは無事だが、並の男であれば、意味のとおった質問を発することすら難しいだろう。  窓のない臥所(ふしど)の中央にすえられた天蓋付寝台で、わたしたち二人は滑らかな手触りの絹の寝具に埋もれている。篝火は入り口付近のひとつきりで、臥所のなかは相当に薄暗い。のみならず、透けるような薄布が幾重にも天井や壁から垂れ下がり、その紗幕がチロチロと揺れる灯りや影を映して煌めく。夢幻境もかくやという心地に誘うのだった。 「神意は、人の都合で図れるものではござりませぬゆえーー」  そう答えるわたしの体を引き寄せ、将軍がのしかかってくる。唇をふさがれ、荒々しく吸われた。武骨な指先が肌をまさぐる。賊など到底入り込めぬ〈大神殿〉の最奥部とはいえ、一糸纏わぬ裸形を晒す豪胆さは認めねばなるまい。  やがて貪るような接吻をとき、マナン将軍は耳元に口をよせ、こう言い放った。 「お前は大巫女どのではないな、何奴だ貴様は」  わたしは息をのんだ。 「何を仰せでございましょうや……」 「口を慎め。妙な手妻さえ効かなければ、お主の体と、あの巫女どのの細腰を見紛うはずはあるまい」  ふいに凶暴さを露わにして、将軍の声が尖る。マナンの言うとおりであった。妹ゼフィールは、たおやかな、水辺の野花をおもわせる優美な肢体であるのに対し、わたしはといえば骨太の体つきといい、たっぷりとした太り肉といい、およそ蒲柳の質とはいいがたい。  口ぶりそのままに、わたしは乱暴に突き放された。にゅっと伸びてきた太い指が首にかかり、咽喉が押さえつけられる。たちまち息ができなくなった。 「ーーっ将ーー軍、どの……お止めに……っ」  わたしの苦悶を、マナンは無視した。 「いい気になるな。ネルガル神殿が、あらゆる権威と世俗権力の上に立って大地(ナンナ)をしろしめしていたのは、往古(おうご)のこと。今は鉄と血の時代ぞ。祭祀王(エンシル)ですら、我ら武人の助力なしには国土(ナンナ)を統べることはできぬ。ましてぬしら神聖娼婦など、ただの売女(ばいた)にすぎぬーー」  万力のような力が指に込められ、さらに苦しくなった。  がーー。  うごご、と(ひきがえる)のような声をあげることになったのはしかし、マナンの方であった。指が離れた。将軍は咽喉をかきむしり、紫色の舌をダラリとだした。その横でわたしはごふごふ、と激しく咳きこみ、喘いだ。痛みと屈辱で、涙がにじむ。 「ぐげげ」  将軍がのたうち回り、ついには寝台から転げ落ちたのが感じられた。ようやく目を開けることができた。  毛皮の敷き物の上、戦傷(いくさきず)も生々しい鍛えられた尻を晒しながら将軍が、芋虫のような動きで入り口に這っているところだった。そのしぶとさにーーあるいは目にみえぬ力から逃れようとしているだけかもしれないがーーわたしはまたも舌を巻いたが、同時に神秘というものを軽んじすぎた人間の愚かさを嘲笑う心持ちもあった。ここは神域であり、神の巫女の呼びかけが〈名づけえぬ神〉にもっとも近しく響く場所のひとつなのだ。わたしのーー〈声を聞く者〉のーー苦境を神が見過ごすはずがない。たとえそれが、慈しみによる恩寵でなかったとしても……。  ハッと気づいたわたしは、慌てて神へ、この不敬者に慈悲を乞うた。まだ、マナンを死なせるわけにはいかない。  わたしは目を閉じて、自らの指を女陰に這わせた。まだ湿りがある。わたしは心を()り合わせ、一瞬にして意識を、没我の境に導いた。  それはふつうに想像される〈祈り〉とは異なるものかもしれない。だがわたしはすぐさま神が、心に直截触れるのを感じた。瞬間、わたしは黒い影に己が貫かれたのを、まざまざと感じた。現実の世界ではほんのわずか、手のひらから雫が床に落ちるほどの長さであるが、別のどこかでは一昼夜ほどの神々との交歓のあと、わたしは帰還した。  ごふっ、という音がして、将軍のもがきが止まる。  わたしはすぐさま、寝台からおりて近寄った。よかった。まだ息がある。わたしはぐったりとなっている将軍の背中に手を当てた。男の浅黒い肌は、氷室に閉じこめられたかのように恐ろしく冷えている。暗い外宇宙から招聘された神力のなせる業である。  口元で聖句を唱えた。いまいましいが将軍の持つ軍事力が必要なのだ。ことにいま、東に興った強力な帝国アグラーヤが、ヤン河流域への領土的野心を隠さなくなったからには、なおのこと。  気息を整え、意識を集中していると、手のひらが熱を帯びてきた。その熱をわたしは、将軍の体に送り込む。マナンの体がしだいに温まり、血が通ってきた。〈神の力〉を借りずとも、この程度ならばわたしにだってできる。というより、そうせざるを得ないのだ。〈名づけえぬ神〉は、〈力〉を与える替わりに見返りを求める。〈神〉の要求する見返りが、どんな見積りのもとに弾き出されるのかは、神のみぞ知る。迂闊に利用しないに越したことはなかった。  そうして熱を注ぎ込むことしばし、安全な状態にまで持っていってからわたしは、寝台わきの吊り紐を引いた。ほどなく警備隊長のサルマが、控えの間からやって来た。 「ゾラ様!」  サルマは一瞬にして状況を見てとり、わたしに駆け寄った。同時に袂から懐剣をとりだし油断なく将軍に向ける。かつて傭兵稼業で諸国を遍歴していた時代の習いである。 「その男はもう無力よ」  わたしの言葉にサルマは一応刃を引いたが、警戒は緩めていないようだった。  長身で黒檀の肌をもつ南方人のサルマは、無口なこともあって、ともすれば表情のない人形めいた印象を与えがちだが、その実、焔のように激しい熱情を秘めており、なによりわたしたち姉妹に忠実だった。妹とわたしのこと、つまりネルガル神殿の真の大巫女たるわたしと、代理として表舞台に立っている妹ゼフィールの関係を知る数少ない者のひとりだ。  わたしは意識のないマナンの巨体を見下ろして、 「どうやってこの男を運ぼうかしらね」  と相談した。 「神人(じにん)を呼ぶしかございません。私でも扱いかねまする」 「でも、何て言ったらいいと思う」  サルマは肩をすくめ、答えた。 「法悦(よろこび)のあまり気息を乱したと」  一瞬、冗談かと思いサルマの顔をまじまじと眺めたが、その表情があまりに鹿爪らしいので、つい吹き出してしまった。 「そうね、そういう話でいきましょう。あとをお願いしていいかしら」  サルマは屈強な神人たちに将軍の身柄を渡し、神殿の西の〈王の館〉で休ませるように指示をした。しばらくは起きあがれないだろうが、おとなしく寝ていれば元通りに回復するだろう。  これに懲りて、将軍の暴走が止めばよいのだが。  わたしは、そう願わずにはいられなかった。
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